照れ隠しなのか本当にそうだったのか最初は「気が進まないっす」と言っていた西沢君だったが、予定していたスタジオ練習の日にはちゃんと現われた。僕は、町田の彼の家を訪問した日に、デモ音源が入っているMDと簡単な曲の進行とコードを書いた紙を去り際に置いて行った。それはいまバンドでやっている曲のシンプルなデモ演で、弾き語りとドラムマシーンの組み合わせだったり、音の良くないラフな練習音源だったり、形態としては様々だったが、今の我々W3の現状を正しく反映したものというよりは何かしら西沢君の興味を引き付けられるようなポイントを持った音源だった。言うなれば「ここは付け足せそうだな」とか「この曲は弾き語りだが、バンドでやればもっと良さそうだな」とか色々とスタジオでどうするか、どうなるか、想像させるようなものにしたつもりだった。勿論音源に対するリアクションは僕の願望であり、妄想だったが「音源聴きました。いいっすね」というそっけない確認メールが返ってきて、とりあえず興味は持ってもらえたようだった。ベストな音源を選ばなかったのは、当日に思ったよりもバンドの演奏が良いというサプライズを期待してのこともあった。それぐらい南さんと柳の生の演奏には自信を持っていた。
西沢君は余計なコミュニケーション、最初の遠慮がちな挨拶とか、自己紹介とかを極力短時間で済ませたかったのか時間ぴったりに現われ、僕以外のメンバーは演奏の準備をしながらお互いに軽く自己紹介をしあった。まず柳のギターの弾き語りでも成立するようなフォーキーな曲から合わせることにした。西沢君がどのように曲に厚みをつけていくのか知りたかったし、シンプルな分、南さんのドラムの素晴らしさが際立つ。そしてなにより柳の楽曲と歌の力づよさがダイレクトに西沢君に伝わるかとおもった。西沢君はギターを持ってきていたが、スタジオ付属のキーボードも借り、両方弾ける準備はしていて、まずはキーボードで合わせることになった。音色はハモンドオルガンとフェンダーローズピアノに寄せた音、二種類をしばらく交互に鳴らしていたが、ハモンドオルガンに決めたらしい。「準備できました」と西沢君がいうと、カウントもなしに柳がギターでリズムをとりながらハーモニカを鳴らし、曲がスタート、南さんがフィルインをきめ、僕がベースをいれた。遅れて西沢君も入った。複雑ではなくシンプルだが独特なノリをもっていて、柳のギターと歌、それだけで心地よい曲だったが、そこに南さんの自然と身体が小気味よく動いてしまう軽快なドラミングが加わることで、どれだけ長く演奏したとしても退屈しない中毒性があった。僕のベースは、そっけない柳のメロディをサポートするような形でリズムを支えつつメロディアスなフレージングで曲に多少なりとも華やかさを与えていた。ここに西沢君が全体を装飾するように、隙間を埋めるようにキーボードを入れたから、僕は少し引いて、メロディを抑えてリズムに徹したアレンジに急遽変えてみた。なんてことは無い、動きをちょっと抑えただけだが。この曲は雰囲気だけでなく、その構造もフォークミュージックに習っており、Aメロ、Bメロ、サビといった通常のJ-Pop的枠組みではなく、起承転結のある短い一つのセクションが繰り返される。その為、演奏には飽きさせないような工夫が必要だが、コードなども複雑ではなく、正解といえるようなポイントが非常に狭いため、アレンジが難しいのだが、西沢君はなんとか、それをくぐり抜け、正確にアドリブで隙間を埋めていき、最初からこの曲はこのようなアレンジだったかのような音をだしていた。そうすると全員の演奏の歯車ががっちり組みあがってきて、セクションを繰り返す度にギアが上がるように盛り上がり、全員が一体化した演奏で曲が終わった。「やり切った!」という感覚があった。夢中になっていたから気にしてなかったが、彼の反応が気になったから西沢君の方を見ると、彼はなにもいわずに皆に背を向けていた。ちらりとほくそ笑んでいる所が見えた。
西沢君がギターに持ち替え、同じ曲をやった。ギターの厚みを増したこのセッションも負けず劣らず素晴らしい演奏になったが、印象的なフレーズが出てきたキーボードで行こうという話になった。その後他の曲も含め、何曲か合わせた。一度だけ演奏中に西沢君と目が合った。「凄いことになります。これは」そう言っている目だった。僕は黙ってうなずいた。
プライドによるものなのか興奮によるものなのか分からなかったが、練習が終わっても西沢君は加入するとは一言も言わず、スタジオの休憩スペースで、バンドについての様々な前向きな意見を出し、さも始めからそのバンドにいたかのように次回の段取りについて相談をもちかけ、柳も南さんもすんなりとそれを受け止め、黙ってそれを聞き、あの射貫くようないつもの目で黙って西沢君を見つめてうなずくと、彼らの反応がどういう事なのか読み取りにくかったのか、一瞬たじろぎを見せたが、すぐに立て直してまた意見をぶつけ始めた。それがどんなに僕にとって頼もしかったことか! バンド内の勢力図が書き換えられた瞬間だった。その日の練習はW3が今までライブなどで披露していた柳の曲中心だったが、西沢君の提案で次回は彼の自作曲と僕の曲をメインでやることになった。こんな提案僕一人では到底できない。
西沢君が次のセッション様に用意したのは彼のシニカルな部分がよく出ている、皮肉が効いた、ひねりのある曲で、シンプルな構成の中にも複雑性があり、コードも凝っていた。それは効果的に歌うには演劇的なものを求められる部分があって、最初我々の前でそれを披露するのに若干の照れと抵抗があるようだったが、暫くすると慣れてくれたのか最終的には実に堂々としたものになった。どちらかというと柳の書く曲はシンプルなコード進行でその上シンプルなアレンジがハマる曲で、僕の曲は複雑さでいえば西沢君と柳の丁度中間といえたが、曲の雰囲気でいうと一番メランコリックでドリーミーだった。その観点だと柳の曲が一番ドライで、西沢君の曲は僕と柳の曲の中間だった。これ以降、三人の楽曲はそれぞれ別の個性でお互いに距離を保ちながらバンドの中で共存することになった。そのバランスが均衡を保っているときはまるで完璧な正三角形を形作っているような感覚があった。その中心には南さんが位置していたのは言うまでもない。
西沢君加入前からすでにある曲以外でも、すぐに何曲か形になったし、ひと月もすれば四人体制のW3で十分過ぎるぐらい満足のいくライブができたはずだった。けれど、西沢君は新生W3はもっと戦略的に打ち出したいと主張した※①。勿論僕もそのような勿体ぶった再デビューのような事は考えてはいたが、場数を踏む方が経験上重要だと分かっていたからライブを休止するという考えはなかったし、何よりもう四年生※②の僕には時間がないと思っていたからこれ以上の足踏みをする勇気はなかった。普通だったら反対していたと思う。だが彼はこの戦略にかなり自信を持っているようだったから、その熱意にかけてみたくなった。「完璧ではないにしろそれぞれの曲を八割がた完成と言えるクオリティにもっていってからライブをやりましょう。まだまだ六割程度です」それが彼の言い分だった※③。そうして僕たちはその春から夏までの間、ライブ活動は休止、溢れる創作意欲を十分にスタジオでぶつけ合うことになった。
「ところでその我々の再デビューだけどいつ頃を予定していこう? それぐらいは決めといたほうがいいよね?」ライブ休止を決めた直後の練習で、柳と南さんがかえって西沢君と二人きりになった時、先日から気になっていたことを彼と相談しようと思い切り出した。
「夏ぐらいですかね」
「だよな。それ以上長くてもだれちゃいそうだし。そこまでには曲もこの新しい体制も仕上がってそうだし。それならそうで、どのライブに出るか今のうち決めておかない? 夏っていってもすぐだから自分でイベント企画するにしても会場がもう空いてるところも少なくなってきてると思うし」
「そこなんですよね。ちょっと言いだしづらいんですけど考えてることがあって」そういう彼の顔は上手いことを思いついているみたいに自慢げで、全然言いだしづらそうではなかった。「なんだよ」「StraySheepsと対バンできないですかね」
StraySheepsと僕の関係についてはリバーポートソングで出演したライブを彼らも目撃していることもあって彼も当然しっていて、というかファーストペンギンズのメンバーは石田さんと同じサークルだったということもあって彼らから「絶対みたほうがいい」と言われてStraySheepsを西沢君が見に来た経緯もあり、その辺の事情は一度詳しく話していた。
「StraySheepsはいまもっとも勢いのあるインディーバンドといっても過言ではないですし、そこで我々が彼らを上回るパフォーマンスを見せつけたら一気に話題になれるんじゃないですかね。コネでなんとかなんないすか」
「正直気はすすまない。気はすすまないけど、確かに実現したらチャンスだ。今の体制なら彼らに見劣りしないライブになりそうだし、柳も昔ドラムでStraySheepsに参加してたという僕以外のコネもあるしな。それが仇になるかもしれないが」
「柳さんもメンバーだったんすか。しかもドラム?」
「そうだよ。いってなかったっけ。すぐやめたけど。というかStraySheepsを辞めてもらって始めたのがW3だから」
「そうかー。じゃあ厳しいかー」
「いや、柳が打診すればいける気がする。根拠はないけど」
「じゃあ俺、早速柳さんに頼んでみますよ」
柳は一言いいよと言ったらしい。そして早速高岸に話をしたようだ。柳がどんな交渉をしたのかはわからない。高岸が(あるいは石田さんが)なにを考えて、元メンバーが二人いるバンド、しかも決して友好的、理想的な別れ方ではなかった二人、と対バンを受けようとしたのかはわからない。けれど彼らが八月下旬にやろうとしていた企画のうちの一つに我々も入ることとなり、そこで最高のパフォーマンスを見せつけるのが当面の目標になり、本番までどうバンドのかじ取りをしていくかは西沢君と僕と二人で考える事になった。
その頃メンバーの都合やアクセスを考慮し、練習は毎週金曜、場所は渋谷になっていた。練習が終わってからは四人で軽く振り返りをしたりしなかったりだったが、柳はその後、夜間の授業に行き、南さんは帰って、僕と西沢君は二人だけでそのあとも色々と相談したり、遊んだりすることが多かった。遠いなと思いながらも彼の町田の家に行くこともあったし、僕の家に行って、後で柳が合流することもあった。西沢君とは当日の音源を聴きながら反省点を洗い出したり、バンドの音楽的な方向性などを話したりしたが、バンドのプロモーションをどうしようかという話も結構した。マイスペースにちょっとしたバンドのページも作って音源も一部聴けるようにし、そこにはライブの予定やメンバーや曲の情報なども簡潔に載せた※④。フライヤーも作ることにした。当時はSNSでのマーケティングなんてものはなく、Facebook やTwitterが日本でサービスを開始するのも翌年の2008年の事だったので、まだまだバンドの宣伝というとフライヤーやマイスペースや当時の携帯で作れるようなちょっとしたWebサイトがメインだった。下北沢などを歩いているとバンドマンが地道にライブのフライヤーを配っている姿にたまに遭遇したものだった。今でもそうなのだろうか? もう下北沢には何年も行っていない。ステッカーを作ってあちこちの路上に貼るバンドやラップグループなどもあったし、他には影響力のあるインディー音源を扱うCD屋などに音源を置いてもらったりするのも有効だった。我々はまだレコーディングする段階でもなかったから(やろうと思えば十分できたと思うが)、来るライブに向けてとりあえずフライヤーを作って、行きつけのスタジオや、ライブハウスに置いてもらったり、街や大学で配ることにした。そのフライヤーをデザインするためや、マイスペースに載せたり、ライブハウスに素材として提供するためのアーティスト写真がいるという話に西沢君となった。
「誰か写真とれる人いないですか」
「一人いる」思い浮かんだのは成戸だった。
成戸は就職活動も終わり、卒論の準備を進めていたが、少し余裕がある時期だったみたいで撮影については二つ返事で承諾してくれた。勿論彼女はプロではない。が、腕前は確かだし、こういう事はきっちりしておきたいというのが西沢君と僕の考えだったから、幾らかのギャラというかお礼を提示した。が「ライブ見せてくれたらいいよ」という事で金銭は受け取ってくれず、ノルマ分のチケットが手に入ったらまず彼女に渡すという事で落ち着いた。次にロケーションだったが、皆のアクセスを考えるといつもの渋谷、もしくは新宿などになるのだろうが、人が多すぎるし落ち着いて撮影も出来ないだろうから、ほかのみんなには悪いが、土地勘もあるし、撮影は僕と柳が住んでいる街に来てもらって行うことになった。
まずは、昔柳とよく二人で練習していた近所の「Voice」で練習をいつものようにやり、何点か演奏している写真を撮ってもらった。移動に邪魔なので、前もって僕と柳で私物の機材をスタジオに持ち込んで南さんや西沢君に使ってもらい、練習が終わったら近くの僕の家に柳と運び、他の面子が喫茶店で休んでいる所に合流してから、屋外の撮影を始めた。公園で撮る予定だったが、僕と柳がよく利用していた古めかしくてめったに人がいない(が、相場よりも安い)コインランドリーの前を通ったら成戸がそこが良いというのでそこで撮った。また、近くに小さな町工場があって、灰色の高い塀で囲まれているのだが、その前に差し掛かった時に、その塀の前で撮りたいと成戸がいうので、そこでも四人ならんで撮ってもらった。当初の予定撮影場所だった公園でも勿論撮るつもりだったのだがみんな疲れてきていたし、成戸曰く「取れ高は十分」だったので、駅の近くのチェーンのハンバーグステーキ屋でみんなでご飯を食べ、解散となった。成戸はその食事の様子も一部、アーティスト写真用として撮影してくれていた。久しぶりに会ったから、成戸とゆっくり二人で話がしたい、そんな気もしたがチャンスはなく、駅前でみんなと一緒に別れ、柳と二人きりになった。辺りはすっかり暗かった。二人で僕の家まで街灯もまばらな夜道を歩いた。この時のことはずっと印象に残っている。柳は僕の家で自分の機材を回収してもって帰るが、なぜか僕も柳の家までついていった。機材をおろすと二人で夜の散歩に出かけ、一時間ほどぶらぶらし、柳のアパートの前まで戻った。後日大学で今日撮った写真を成戸に見せてもらう予定だったが、柳も同席したいと言ったから、日にちが決まったら連絡するよと言って別れた。その時まで、今日撮った写真に柳は興味を持たないだろうなと思い込んでいた。それはよくよく考えてみたらおかしなことだった。柳は芸術やポップカルチャー全般に関心があるはずだし、たかがバンド写真と思うタイプでもなかったから。そこで思った。柳も何故か彼なりにくすぶっていて、ずっと調子が悪かったんじゃないかと。今、久しぶりに活き活きとした柳に僕は出会えているのかもしれない。そして西沢君や、南さん、今日の成戸に触発され、彼の中でまた何かが動き出したように思えた。勘違いかもしれない。勝手な思い込みかもしれない。が、様々な思いが身体を駆け抜け、きっとこれから上手くいくと思った。目の前には柳の部屋のベランダからいつもよくながめていた墓地が広がっている。僕はそれを端から端までゆっくりと眺めた。全ての音は死に絶え、ここに眠っている人たちの事をリアルに感じた。
何日か後に大学で成戸と柳と三人で会って写真を確認した。二時頃に学食で待ち合わせ。二人は僕よりも先に来ていて談笑していた。柳が自分以外の人間とこれだけ軽快に話しているのは初めて見た。何を話していたのか聞くと写真家の話だった。僕はその分野については全く疎い。言えることはなにもなかった。二人の話は区切りが悪いところだったのかずっと続いていたが、不思議と疎外感もなく、僕は二人が話すのを満ち足りた心持でみた。話が落ち着くと、成戸は自前のノートパソコンを開き、あの日撮った写真をやっと見せてくれた。明らかに失敗というものや、見せたくはないという出来のもの以外は全部持ってきてくれていて、彼女がいいなと思ったものは別のフォルダに入れてあった。スタジオでは狭さの制約もあって、「思った様なショットが撮れなかった」と成戸は言った。全員がかろうじて映っているその写真を見て我々も素直にそう思った。ただ一人一人が演奏している写真があり、それは一枚一枚きまっていたからそれをコラージュしたらいい感じになりそうだった。次にコインランドリーで撮った写真群。これらは説明的な集合写真ではなく、成戸のリクエストで各々がフレーム内の好きな場所でポーズをとって、各々が自由な動きをしていた。西沢君はドラム式乾燥機に頭を突っ込んでふざけたり、置いてあった漫画をさかさまにもって学術書かのように気取って読んだふりをしてふざけた。南さんは他のメンバーよりも写真慣れしているような感じだったし、背も高いこともあり、もともとモデルのようなクールな物静かさと視線をもったフォトジェニックな人物だったから、何をしても様になり、成戸からの指示も一番すくなく、自然なポーズで自然にフレームにおさまっていた。写真にも造詣が深いくせに被写体となったらどうしたらいいかわからないらしく、柳は所在なさげにうろうろしていたので、最終的には成戸の指示通りに動いていた。僕はそんな三人がいないところに適当に陣取って、ただ壁に持たれたり洗濯機をいじるようなそぶりを見せたり、時には柳の様に成戸の指示にただ従順に従ったりしていた。こうして、見る人の目を引き付けて一瞬立ち止まらせるようなすこしひねりの効いたバンド写真ができた。
次は工場の塀の前で撮った写真。これはオーソドックスなアーティスト写真としてそのまま使えそうだった。四人でシリアスな顔つきで格好つけて並んで立っている。僕はカメラからは少し目をそらしている。南さんはカメラを意識していないかの様に自然と視線がそれている。西沢君はレンズを睨みつけるような勢いで見ていて、柳は全然違う方向に頭を向けていた。成戸が面白い事をいったせいでそうなったのか細かいことは覚えていないが、みんなが自然にわらっているものもあった。下からのショットで僕と西沢君がうえからレンズを覗き込んでいて、背後に南さんと柳がクールに佇んでいるものもあった。この三点が特に印象的で、どれも気に入った。
最後の写真群はハンバーグステーキ屋で撮ったもので、これは場所が場所というのもあり、撮った数も使えそうなカットも少なかったが、これも期待以上のものが一枚だけあって、それは西沢君と僕が二人で激論を交わしているような動きと表情で、南さんと柳は静かに僕らを見ているというものだった。ここで撮ったものには記念写真的なものも混じっていて、それには成戸も写っていた。
これらの写真からはバンドの人間関係やそれぞれのパーソナリティが浮き上がって見えいた。成戸によってそれは引き出されたわけだ。僕はこれらの写真に、柳や、南さんの見たことのない表情を沢山見た。それは表情に出やすい西沢君にも当てはまったし、僕自身、自分がこんな表情ができるのかという新たな発見があった。自分の写っている写真を見て、なんらかの違和感や嫌悪感を抱かないというのは非常に珍しいことだった。理想化された自分が映っているというよりは納得できる自分像がそこにあった。
これらの写真が今僕の手元にあるかというと、残念ながらもう失われてしまって全部なくなってしまっている。だからこれらの写真はもう、僕の頭の中ではすでにおぼろげな輪郭しかなく、それを丁寧に拾い集め、記憶を眺めることしか僕にはできない。処分してしまった何代も前のノートパソコンの中にあったはずだったが、データを移した記憶もない。古いUSBメモリの中にもしかしたら残っているかもしれないが望みは薄いと思う。
写真を全て見終わるとなんというか、感動で柳と僕は厳かな気分になった。どうしてそうなったのか全く思い出せないが、無言で僕らはハグして肩を叩きあった。久しぶりに会った外国の友達とするように。最終的には成戸も交えて三人でハグしあって握手をしたと思う。帰り際に成戸と柳は連絡先を交換していた。成戸がCD-Rに焼いて持ってきてくれていたデータは僕があずかった。次回の練習で他の二人にも見せ、最終的にどの写真を使うかみんなで決めた。
続く。
※①いまから考えると不思議かもしれないが、誰からもバンド名を変えようという話はでなかった。西沢君の加入によってW3は明らかに別のバンドへと変化しようとしていたにも関わらず。
※②留年すると勝手に決めていた僕、そもそも夜間部で五年がデフォルトの柳、二年生の南さんはさておき、西沢君は三年生で、就職活動を控えているはずだった。恐る恐るそのことについてどう思っているのか聞いてみると「俺は院に行くんで関係ないっす」。
※③「完璧をめざそうとして、同じ曲を何度も煮詰めて時間を無駄にしたバンドをいくつも知ってます。我々は持ち札も多いし、八割程度かなと思える位が丁度いいです。それに少し遊びを残しておいた方がライブで飽きないし、長く熱のこもった演奏ができます」
※④Myspace(マイスペース)。当時支配的だったSNS。アーティストとして登録すれば無料で何曲か楽曲をアップロードできたので、いまではもう信じられないことだが、マイスペースがインディペンデントの音楽家たちにとって、とても重要だった時代があった。あのアークティック・モンキーズもMyspaceで有名になったバンドの一つだった。そんなMyspaceもFacebook の登場で段々と廃れていってしまった。