リバーポートソング第二部 第六話 僕たちは広い公園や河川敷に行き、寝転がって音楽を聴いたり、空をずっと眺めたり、くっつきあってゴロゴロ転げてお互いの心臓の鼓動を聞きあったりした。

【第二部 第五話はここから】

【あらすじと今までのお話一覧】

 何が起きたのか分からず暫く駅のホームで起きたことを頭の中で反芻しながら立ち尽くしていた。僕たちの間に、少なくともその時まで恋の煌めきのようなものは多分なかったと思う。それは完全にその日に芽生えたものだった。あの時電車でずっと立って喋っていた時からスイッチが入った様な気がする。あの時電車が空いていて座れていたら、僕が電車を勢いで降りてしまわなければ、二人の間にはずっと何も無かったかもしれない。でも電車は混んでいたし、僕も降りずにはいられなかったし、彼女もそうしてほしい感じがした。アドリブで演奏しているジャズミュージシャン達が、言葉ではなくお互いの演奏から感じられるものを読み取り、それに合わせるうちに、当初は想像もしていなかった場所にいつのまにか到達していた、そんな感じで僕らは西武線のホームにたどり着いていた。あのキスだってどちらからとかそんなんじゃなかった。今までの流れ、お互いの挙動の読み合い、共鳴によって自然にもたらされたものだった。考えてみたら終わってしまうまでキス自体に驚きはなかったし、「いまのキス大丈夫だったよね? してよかったんだよね?」みたいな確認も必要なかった。僕らはまるでずっと会いたかったけどやむを得ない事情で別離を強要されていたカップルが久しぶりに再会したかの様にきつく抱き合って長いキスをしたのだった。電車のベルが鳴って僕らはやっと現実に引き戻された。
 気を取り直してホームを改札方面に向かって歩き始めると喜びが沸々と湧いてきた。頭の中で古今東西のハッピーなラブソングが一斉鳴り出しても叶わないぐらいの多幸感が身体中を駆け巡り、僕は殆ど笑いながら走り出してしまいたくなった。冷静になって恥ずかしくなるとか、これからどうやって付き合っていこうみたいなことはみじんも思わなかった。突然ミュージカル映画の主人公になったみたいで、あたりかまわず「やあ元気かい」とか話しかけそうな勢いだった。喜びで顔の表情がおかしくなってしまった様な気がして駅のトイレで鏡を見る。にやけた顔の男がそこにいて、口紅で唇がうっすらと紅くなっていた。嬉しくてぬぐわずにそのままにして帰った。
 僕たちはそれからあちらこちらで、最初から一つの生き物だったみたいにいちゃつくようになった。自分たちはそういうタイプではないとぼんやりと思っていたがそうではなかったようだ。完全にどうかしてしまったみたいだった。彼女は所沢に住んでいて、僕は有楽町線沿線だったから直線距離にするとそれほど遠くないのだが、電車となると迂回しないといけないので、なかなか僕の家に彼女が来ることもなかった。その代わりに我々はよく車で遠出した。彼女はよく実家の車が使える平日に迎えに来てくれた。彼女の運転するその青い車で僕たちは広い公園とか河川敷に行き、シートをしいて寝転がって音楽を聴いたり、本を読んだり、空をずっと眺めたり、くっつきあってゴロゴロ転げてお互いの心臓の鼓動を聞きあったりした。大学の帰りに池袋周辺をであるく事も多かったが、僕らは二人だけの世界に浸れる車や自然の中を好んだ。僕の人生でこれほど輝きや喜びに満ちていて幸福な日々はなかった。別にそれまで不幸な人生を歩んできたわけではないが、それから先には今までいろいろとあった。その後の人生でやりきれない時期がくると、僕はこの思い出の明かりを灯台の様にして暗闇の中を進んだ。
 柳と会うのは実に三か月ぶりだったが、彼はまるで昨日も一緒にあっていたかのように僕に接した。この三か月間ずっとドラムばかり叩いていたらしい。いくつかのバンドに参加しており、三つバンドをかけもちしているという。ドラムを募集しているバンドは多いから、楽器屋やスタジオのメンバー募集で見込みがありそうなものに連絡をして話を聞き、何度か一緒にスタジオに入って今のバンドに絞ったという。僕は柳と会わなかった間殆ど杉元と遊んでいたから、柳に話せるようなトピックはなにもなかった。しかもこれは原宿にデートに行った直後の話で、また僕と錦の関係にも曖昧な所が多かったから、そのことについては触れなかった。その後柳とはスタジオに入るまでに二、三回程会って今回の新曲のアレンジを詰めた。ついでに前回までにやった曲のおさらいもした。
 十月の中旬に下準備が終わり、いよいよ三人でスタジオに入った。今度は池袋にあるスタジオだった。その頃には僕と錦は何回か会って、その関係は固定されてきていた。
 結論から言うとそこに前回感じられた様なスパークはなかった。錦の書いてきた曲は前回のよりも更に完成度が高くなっていたし、僕のベースの腕前は殆ど変わらなかったけれども柳のドラミングは格別に良くなっていた。にもかかわらずだ。にもかかわらずそこには前回感じられた様な光るものが無かった。たまたま皆調子が悪かったのかもしれない。いずれにしても期待はずれだった事は確かだった。こういう事はバンドには良くある事だけど、ショックは大きかった。そして「よくなくなってる」というのは不思議な事に言わなくても不思議と共有できるのだった。
 時間が来たのでスタジオを出て、スタジオにあるちょっとした休憩スペースで今日の感想についてすこし話した。次の予定はたてなかった。
 本当はこの練習のあと錦と二人きりでどこかに行きたい気分だったしお互いにそう思っているみたいなアイコンタクトが別れ際にあった。だが我々は池袋で別れて、それぞれの岐路についた。
 帰りの電車の中で僕と柳は何も喋らなかったと思う。とにかく疲れていたし、練習の内容がいまいちだったからか柳は珍しく不機嫌そうな様子だった。我々の最寄り駅につき、別れ際に柳が淡々といった。
「メンバーの中に恋愛関係があるバンドには参加しない。今回だけは知らなかったから叩いたけど。悪いが次はない。またな」
 不意のことだったので僕は何もいえずにただ彼が去っていく背中をみていた。僕はその晩ぐずぐずとした言い訳のメールを書いては消し、最終的にシンプルに謝りのメールを書いて彼に送った。柳からは一言「謝ることはないし、気にしてない」とだけきた。
 話は前後するが大学が再び始まり、文化祭シーズンが始まった。錦は自分の大学の学園祭に出演することになっていた。ただ、彼女はピアノの伴奏担当でメインは友達のボーカルだった。ピアノと歌だけのシンプルな編成で歌をじっくりと聴かせる趣旨だという。「良かったら柳君とみに来て」と言われたから、恐る恐る彼を誘ってみたが、返事は快諾だった。当然同じ時期に僕と柳の大学でも学祭があり、一応僕も自分の大学で軽音に所属していたが、殆ど幽霊部員だったから参加しなかった。聞けば錦の大学のステージに実はStraySheepsもでるという。そういえば石田さんも石崎さんも錦と同じ軽音所属だった。StraySheepsは当時精力的な活動を続けており、徐々に人気が出始めていた。自主制作でミニアルバムも作ってだしており、本格的にレコーディングの話も出ているらしい。以前の僕だったら苦々しく思っていたかもしれない。けれどももう脱退したのは一年近く前の話だったし、錦と一緒にいることでじゅうぶん満たされていたので他の事は全部瑣末なことに思えていて、StraySheepsに対するわだかまりはもうなくなっていた。むしろなんで自分からわざわざやめていってしまったのかと思い返すぐらいだった。別にやめてほしいとも言われてなかったのだ。しかしあの時辞めていなければ錦とこうなることもなかったし、柳と出会うこともなかったかもしれないと思うとこれで良いと思えるのだった。
 文化祭当日は家まで柳を迎えに行き二人で池袋に向かった。あの時の練習以来会っていなかったが特に気まずい雰囲気もなく僕らは相変わらず音楽のことについて適当に話ながら実に気楽な心持ちで会場に向かった。会場についてみると錦を始め、藤田さんや石田さんなど、知った面子が塊になって話し込んでいたので声をかけた。錦との事もあったからか、思ったよりも皆から熱烈に歓迎されて「侑里ちゃん(錦の事)泣かしたらゆるさん」とか「淡泊なふりしてなかなかやりおるのー」とか言いながら石崎さんや藤田さんに揉みくちゃにされた。錦はそれもみて照れくさそうに笑っていた。石田さんも「ちょっとみないうちにいい顔つきになったね。Power of Loveだね」とか変なことを言っていた。話題を変えたいのもあって「なにかあったんですか」ときいた。
「それがね。侑里ちゃんが一緒にやる予定だったボーカルの子が体調悪くなっちゃって病院いったらインフルエンザだったらしくて。残念だけど予定してたライブは中止で抜けた穴のステージをどうしようかって話をしてたの」石田さんが説明してくれた。錦もとても残念そうだった。
「そういう事なら錦さんが歌えばいいんじゃないですかね」柳が言った。
「どちらさん?」柳と面識のない石崎さんがいった。そういえばこの中で柳を知ってるのは錦ぐらいだった。みんなに柳を紹介したあと、柳が「出れない人の代わりに錦さんのオリジナル曲を僕らで演奏すればいいのでは」という話をした。皆、同じサークルにいながら、実は錦が歌っている所を見たことがない人たちだったから、彼女が歌えるということすらも知らずちょっと驚いていたようだった。
 周りからの後押しもあって、彼女は一緒に出演予定だったインフルエンザでダウンしていた子に一応連絡をとって、出る事になった。その変更に関しては運営に受理されたが、バンド名がそのボーカルの子の名前+バンドだったので、代わりのバンド名をつけてほしいとのことだった。僕と柳はそれなら錦侑里バンドでいいと思った(実態としてもそうだった)。が、本人がかなり嫌がっていたので没になった。「それならリバーポートソングにしてくれ」と柳が言った。「なにそれ」「後で説明するよ。長い話になる」柳は渡された記入用紙に「リバーポートソング」と殴り書きし、係の人は急いでいて、錦侑里バンドが却下された辺りからイライラしていたので、用紙をふんだくる様にして柳から受け取るとさっさとどこかに行ってしまった。こうして即席バンド、リバーポートソングは誕生した。
 我々の出番はStraySheepsの後だったから、錦のキーボード以外の機材はStraySheepsのメンバー、つまりベースは石田さんから、ドラムのスネアとペダルは石崎さんから借りることになった。石田さんはリッケンバッカーという割とサウンドに癖のあるベースでポジションも下の方で構えるスタイルで、彼女は背が高い方で僕は背が低い方だったので、背丈も同じぐらいだったから、演奏前にストラップを調整しないといけないし、音も結構いじる必要がありそうだった。対して石崎さんはTAMAのIron CobraというペダルにPearlのスネアとヒッコリーのスティックというまあまあ一般的な装備だったから柳は多少の調整で良さそうだった。ドラムセットは会場に置いてあるPearlのセットだった。
 ところで高岸とは久しぶりに会うことになる。あれから全く会ってなかったので正直気まずかったが、前述した通り、錦のことがあったし、柳もいたからある意味どうでもよくなっていた。それよりも急に降って湧いて出た目の前のライブの方に意識がいっていた。
 出番の一時間前ぐらいに高岸と花田がきた。特に僕への挨拶も何もなく、彼は僕の方を一瞥すると石崎さんや石田さんに合流していた。無視されてちょっと傷つかなかったといえば嘘だったが、予想はしていた。花田にいたっては僕のことはもはや覚えてもいなさそうで、気にも留めずに僕の真横を通り過ぎていった。StraySheepsは固定ファンと言えそうな人たちが出番近くになるとちらほらきていて、特に高岸と石田さんの周りには始まる前からそれなりに人が集ってきていた。
 その後もなんどか僕はStraySheepsのライブをみることになったが、その時のライブは彼らのライブの中で最も良かったライブの一つだったと思う。Roxy MusicやXTCの様なちょっとひねりの聴いたパワーポップにGang of Fourやミッシェルガンエレファントみたいな超攻撃的なギラギラしたギターが絡んだ実にスリリングな楽曲を展開しており、これは反応せざるを得ないという出来だった。そしてその中で残念なことに明らかに石崎さんだけが浮いていた。他のメンバーの力強くも軽妙な演奏のなかで、見た目に合わない繊細さを持った石崎さんのドラミングはうまくかみ合っていなかったし、本人のやりたいことにテクニックが追いついていないのもあった。メンバーの中ではもちろん一番仲も良いし、慕っていた先輩だけにその事実がわかったのは辛かった。同時に彼のドラミングの弱点みたいなものに昔は気づいていなかったが、はっきりとわかるようになって自分の耳が無駄に肥えてしまったんだという実感はあった。勿論バンドは有機的な集まりなので、単純な巧拙だけですべてが決まるわけではないが、少なくともStraySheepsの場合は、そこに石崎さんはハマっていない感じがした。実際に彼はこの後すぐに他のドラマーに取って代わられることになった。それはともかくライブは当然のごとく大盛り上がりで、高岸も観客の熱気にあてられてかなりノッて来ている様で、凄みを聴かせてステージ下を睨みつけるように歌っていた。その最高潮の時、高岸と目が合った。彼はそのまま僕から目をそらさずに歌い続けた。それは「どうだ、凄いバンドになっただろ?」という挑発に思えた。僕はそれに憤りを感じることも無く、ただ彼らの音楽を楽しんでいただけなのにそれを邪魔された気分になって残念だと思い、さっと目をそらした。何はともあれStraySheepsは順調に成長を続けて、誰もがこのまま行けばデビューは確実だと思うようなバンドになっていた。
 ライブは最高潮のまま終わりを迎えて僕らの出番になった。当然のごとく、あれだけ集っていた人はまばらになり、残っている人は片付けを終え、ステージから降りてきたメンバーに話しかけたりしていた。我々が身内以外誰からも期待されていないのは明らかだった。しかし、それならそれで僕は気が楽だったし、柳は何も気にしない性格だった。それに僕は錦の緊張の方を心配しており、自分がどうこうということはあまり考えなかった。また、石田さんのリッケンバッカーの音作りをなんとか自分のいつものベースの音に近づけることに集中する必要があった。ありがたいことに石田さんは僕に付き添ってくれ、いろいろとアドバイスをくれた。
 準備が終わり、いよいよ演奏の時間になった。司会進行役の実行委員会の人が我々を軽く紹介した。曲順は事前に決めていたが、最初になにかMCを挟むとかそういう話はまったくしていないことにこの時になって初めて気がついた。一曲目は「ビッグ・タイム!」という打ち込みの曲で、それ用の音源を持ってきていなかったからやめようという話に最初はなっていたのだが、ライブで一番盛り上がりそうなアップテンポの曲だったので、是非やりたいと柳が押し切ったことで決まった曲だった。打ち込み音源があるときは柳がシンセを弾いて、錦は歌だけに専念する形の曲だったが、今回は錦はシンセを弾きながら歌うことになる。つまり一度もやったことのない編成で、アレンジも打ち込みのものとはことなるバージョンにならざるを得ない。それをぶっつけ本番でやろうという話で今から考えてみるとなかなか無茶な試みだった。そもそも打ち込みの正確さとビートの野太さがこのダンストラックの売りの一つなのに、それを生のドラムに担わせて楽曲本来の良さがでるかも謎だったし、加えてこの曲はボーカルの動きが激しい曲で、それがこの曲の多幸感の屋台骨だったので、キーボードの前に固定されて歌った時に、十分な躍動感が出るかどうかも懸念事項だった。だが、そんな僕の考えはすべて杞憂だった。
 錦はひとたび演奏が始まるとスイッチが入るタイプでこの日も司会進行役のMCが終わると、急にシンセの弾き語りでこの曲を始めたのだった。まずはこの曲の売りの一つであるボーカルの動きの激しさを大げさに弾き語りでやり始めて観客の心をいきなりつかもうとしたのかもしれない。そんな大胆な発想や、オーディエンスに何かを見せつけてやろうという気概などは普段の態度からは全く感じられなかったが、ステージにあがった彼女はまるで別人の様に聴き手を引き込むことならなんでもしかねなかった。その狙いは観客だけでなく柳と僕にも響いて、僕たちは打ち合わせがなかったにもかかわらず完璧に曲に入る事ができた。柳のドラムは安定感があり、打ち込みのトラックとはまたちがったグルーヴのある四つ打ちのドラムを展開していた。僕のベースはいつものフレーズだったが、柳と何度もスタジオでセッションした経験が活きたのか、柳のドラミングにもバッチリ息があった演奏ができた。そして錦はそのリズム場を自在に跳ねまわったボーカルで観客を引き付けた。余白が多い曲だったから、そういう隙間部分にちょっとしたスキャットやシャウトを入れてきて、ぞくぞくする瞬間が何度もあった。彼女のボーカルはただ上手いだけでなく、エモーショナルさとワイルドさと繊細さが同居しており、我々は常にここちよくそれに揺さぶられるのだった。そうだ、これこそが最初に彼女の歌を聴いた時の衝撃だった。この感動を多くの人に届けるべきで、そのためならなんでもしたいとあの合宿のとき思ったんだった。そのことを改めて演奏しながら僕は思い出していた。
 ライブはあっという間に終わった。一曲目以降の曲はもっとキャッチーで複雑な曲だったから、錦の凄さや、柳のドラミングの勘の良さが、もっとわかりやすく伝わったと思う。対抗意識も別になかったが、我々は期せずしてStraySheepsが起こした感動を、錦の圧倒的なパフォーマンスで上書きしてしてしまった。その中で自分がどのくらいのパフォーマンスを出来ていたのかは全然わからなかったが、終わったあと、どのくらいの人間が声をかけてくれたかで、自ずとその評価はわかった。僕の所には知り合いしか来なかった。
 だが僕の目標は完全に達成できたといってもよかった。このライブをみていた物は全員、錦がその圧倒的な歌唱でボーカリストとして、そしてMCを通してこれらの曲が自作であることが明かされた事でソングライターとして卓越した存在であることを知ったのだった。また、一部は錦だけでなく、柳の存在にも注目していた。そしてこの時柳に注目していた人は彼が後にドラマーではなく、ギターボーカルとして再登場することで再度驚くことになった。
 ただ僕はこのあと起こる事を全く予想出来ていなかった。予想出来ていたら悩んだ末にこのライブに代打出演することを、全くの利己的な思いから強く反対していたとおもう。恋人としてだけでなく、バンドメイトとしての錦との関係性をもっと深め、彼女の才能に対する世間の賞賛と、自分がもっているものとのギャップの衝撃に十分に備えてから、彼女の存在を世に知らしめようと慎重になっていたと思う。
 ライブ中のMCで錦はこのバンドがもともと予定していたバンドのかわりであることを当然のように説明した。もともと予定していたバンドをみに来てくれた人を目当てで来た人もいたからだ。それだけでなく、このリバーポートソングというバンドの背景まで彼女は説明してしまった。つまりこれはちゃんとしたバンドではなく、錦の曲を形にしてみたいというそれだけの為に好意で僕と柳が協力してくれたという事まで皆に明かしてしまったのだ。彼女はそれによって何が起こるか全く考えもしなかったと思う。彼女はただの親切心から、出演できなかった友達への申し訳なさから、僕と柳に対する感謝から、これらの説明を観客にしたのだった。その結果彼女が「フリー」であることが明らかになると、ライブの終わりから熾烈な勧誘合戦が始まった※①。彼らは話題のバンドがいるからとStraySheepsを敵情視察に来た連中だった。
 彼女はいくつかのバンドに同時に誘われて、そして彼女の性格からか、断り切れずにそのうちのいくつかに参加することになった。そして最悪なことに誘われたバンドのベースに僕がなることを条件とした。彼女からしたらそれは心細さから来るものだったかもしれない。ひょっとしたらそうすることで諦めてもらおうとしたのかもしれない。僕としてはそんなことで僕を利用して欲しくなかった。彼女は否定していたが、僕はベーシストとしてその時点では全然大したことがなく、彼女の力量に釣り合っていなかったから、屈辱的だった。そして更に最悪なことに、僕は錦が勧誘されたバンドでベースをやることを断らなかった。彼女を「発見」したのは自分だというエゴが僕にはあり、彼女が世に羽ばたく瞬間には自分が側にいるべきだという考えに僕は固執していた。また恋人としての独占欲もあったと思う。中にはバンドメイトとして誘っておいて、彼女にしつこく言いよっている奴までいた。当然そんな連中が僕をベーシストとして歓迎してくれるわけもなく、力量の面でも疎んじられたし、もともといたベーシストからはいくつか罵倒の言葉も頂戴した。
 その点、藤田さんは実にしたたかだった。彼にはもともとメソポタミア文明ズに錦が在籍していたというアドバンテージがあったし、錦との付き合いも長かったから彼女の性格も理解していた。それらの即席の勧誘が上手くいかない事をわかっていたのだろう。じっくりと彼は錦を中心としてメソポタミア文明ズの改造計画を水面下ですすめた。結果、錦は、メソポタミア文明ズのメンバーとしてのみの活動に結果的に落ち着き、メソポタミア文明ズは藤田さんが舵をとった上で、錦のボーカルと作曲能力を全面に押し出すバンドになり、ふざけたバンド名も偶然同じ名前のバンドが都内で活動していたこともありSafety Blanketsに変更になった。そしてSafety Blanketsはすぐに絶対安全毛布になった。どうでもいいことだが、それらのバンド名も実は僕がつけた。藤田さんには合宿の時から良くしてもらったし、恩義もある。だが彼が錦を彼のバンドの中心に据えようとしたことだけはどうしても許せなかった。僕は藤田さんも避けるようになり、いよいよ石崎さんや石田さん達の界隈から距離を置くことになった。 
 ただ藤田さんも含めて錦を自らのバンドに勧誘してきた連中にとって完全に誤算だったのは、錦に「有名になりたい」とか「デビューしたい」とかそういう思いが全然なかったことだ。彼女は確かに音楽で食べていけたら素敵だなという大学生らしい仄かな思いを持っていたかもしれない。ただ、同時に他の学生と同じように、自分の将来について「まともな」考えを持っていたし、「安定」「安心」を心から欲していた。
 当然のごとくこれらの状況は僕と錦の関係にひびを入れ始めた。僕は彼女の人気と才能にはっきりと嫉妬するようになった。彼女の行動に対して疑り深くなりはじめた。同時に彼女から「被害妄想的」と言われ続けるぐらい自分を卑下するようになっていった。
 メソポタミア文明ズが最終的に絶対安全毛布になり、錦が勧誘されて参加した最後のバンドが最悪な終わり方をしたころに僕たちは別れた。最後の方は喧嘩していることの方が多かった。僕は比較的穏やかな性格だと思っていた彼女から、いままで人生で投げかけられてきたことがないような罵りの言葉をもらった。二人ともズタズタになった所でもう暫く会わない方が良いという結論になり、どちらともなく別れるという話になった。正直ここら辺の経緯は思い出したくないからか、よく覚えていない。ただ、いくつかの凄惨な場面は残念ながらお気に入りの服の目立つ所についてしまった取れない大きなシミのようにこびりついていて、彼女との楽しい思い出を引っ張り出したときに嫌でも思いだしてしまう。
 ありがたいことにこの後も僕はいくつかの恋愛を経験することになるが、どれも長続きしなかった。相手からすれば僕はいつも上の空で何を考えているかわからないそうだ。誰かほかの人のことが頭の中にあるように見えるとみんながいう。そうかもしれない。僕の心の中には未だに錦が占めているスペースがあるのかもしれない。僕の人生で後にも先にも錦との出会いから別れまでのあの短い間、あれほどロマンティックで幸福な時間はなかった。終わり方も人生で最悪といえるものだったが、不幸なことにこれに勝るとも劣らない最悪な出来事にはその先何度か遭遇することになる。
 そしてありがたくないことに、錦ではなくなった彼女のFacebookは今でも律儀に更新が続いており、そこには幸せな家庭の模様がダイジェストで映し出されている。僕は自分を痛めつけるためだけに定期的にそれを覗いて、たまに「いいね!」したりする。

第二部 絶対安全毛布編 完

第三部、W3編に続く。

①フロントマンのお株を奪われると思ったのか、流石に錦の獲得合戦に高岸は参加しなかったが、ドラマーとして柳をStraySheepsに誘ってきた事を後に柳が僕に明かした。

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