リバーポートソング第三部 第五話 当時僕はそれを全て「才能」のせいにしていた。

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 僕らW3の初ライブを期待していた人なんて一人もいないだろう。僕たちは当然無名だったし、宣伝もしなかったし、知り合いすら呼ばなかった。今みたいにTwitterやInstragramなどもない時代だったからネット上の告知もなかった。簡単なホームページぐらいなら既存のサービスを使えば簡単に作れたが※①、告知などは知人の伝手やライブハウスやスタジオに置いてあるフライヤーなどがまだまだメインの時代だった。無策ではいつまでたっても誰にも届かないことは明らかで、単発でライブをやっても次につながらなければ意味がないとおもったから、僕は簡単なフライヤーを作って、次回のライブの告知としてライブハウスに置いてもらった。次のライブも同じ大塚の箱を七月に押さえた。フライヤーには僕らの簡単な経歴みたいなものを書こうかとも思ったが、StraySheepsが人気になってきたとはいえまだまだのメジャーデビューすらしてない状態だったから、元StraySheepsと僕が名乗ったところで何ともなかっただろうし、そんな「恥ずべきこと」をするつもりも全くなかった。柳も数々のバンドをいろんなパートで渡り歩いていたはずで、その中にはちょっとばかしライブハウスシーンでは有名になっているバンドもあるはずだったが、本人が無頓着だったせいで、そんな情報も引き出せず、覚えていたとしても同じく載せるのを嫌がったろう。柳はライブハウスに出演するためのお金は勿論出してくれたが、この様な広報活動に、腹立たしいぐらいになんの興味も無かったから、二人の時代の時は短かったが、こういう活動は全部僕がやっていた。
 結局、我々が用意したのは五曲で、そのうち四曲は柳が作って柳が歌う曲だった。選曲は全部僕が行った。ライブの構成も僕。彼はそれにただうなずいたり、「それはちがう」とか時々くちをはさむだけだった。自分の曲はバンドとしてのアレンジを必要としているところがあったし、曲づくりの段階である程度のアレンジのイメージも出てきていた。だから二人だけではどうしても迫力不足というか、観客に十分なインパクトや感動をもたらすには不十分と思い、比較的歌の比重が高めの一曲だけにした。対して柳の曲は基本的に弾き語りでも成立するようなフォーキーな楽曲だったから二人だけのライブにはもってこいだった。すぐ耳コピ出来そうなシンプルなコード進行に印象的で詩的な歌詞、時々メロディというよりは抑揚の効いた詩の朗読みたいな箇所もある。それは言葉に説得力があり、なおかつ演者が照れたりしないという条件でしか成立しない代物だが、歌詞はどこに出しても恥ずかしくないぐらいしっかりしていたし、柳はなんのてらいもなく歌った。逆にいうと柳の曲はこれ以上人数が増えたときにアレンジに困りそうだと思った。あまりにも歌そのものの力と存在感が強すぎて、アレンジが出しゃばり過ぎると情報量が多くなってくどくなってしまう。
 本番当日。僕らはなんの緊張感もなしにリラックスして臨んだ。柳はもともと緊張したようなそぶりをライブで見せないタイプで、それが元来のものなのか、踏んできた場数が多いからなのかは分からなかった。僕もそのころまでにはいくつかのライブを経験してきていたし、何よりまともに練習もしてなかったのに突然ライブに駆り出されたあのリバーポートソングの一度限りのライブに比べたら、きっちり準備してきた今回のライブは大分精神的に楽だった。とはいえ、人数が減れば減るほど、一人一人のミスも目立つので、二人だけのライブはそれだけ緊張してもおかしくなかったが、柳の曲に絶対の自信をもっていたのと、非常にシンプルなアレンジしかしてこなかったからミスのしようがないというのもあって緊張は演奏に適切なハリが出るぐらいの丁度良いものだった。
 僕たちの出番はまたしても二番手で、一番目はロボコップというふざけた名前のコミックバンドで、初期の電気グルーヴをもっとチープにした感じで、これが割とよかったうえに固定ファンか知り合いなのかがヤジを飛ばしたりしていて盛り上がっていた。ということで、結構雰囲気が違う演奏をこれから我々はしなければならなくなった。つまりロボコップが作った空気を若干シリアスにするところから始めなくてはならなくなった。
 ライブハウス側が適当に選んだBGMがフェイドアウトして僕らの出番になった。音が完全に絞られる前に柳は食い気味に演奏を始めた。程よく歪んで心地よいエコーもかかったエレキギターのコードを中心としたメリハリのいいリズミカルなギターリフが鳴り響く。食い気味に入ったのは実に効果的だった。これから我々の演奏が始まるんだという強烈な主張になった。一曲目は僕の提案で柳によるエレキギターの弾き語りの二分弱の曲にした。短すぎて簡潔過ぎていて、けど完成されてはいるからいじりようがなく、ライブには使えないと彼は思っていたが、これはアコギじゃなくてエレキの弾き語りにして一発目に持ってきたら結構なインパクトを与えられるんじゃないかとピンと来たのだが、狙い通りだった。
 二曲目は打ち込みのドラムに合わせて演奏されるフォークソングで、ドラム一定のリズムと、半分詩の朗読みたいな抑揚の効いた歌唱が呪術的な効果を生む曲だった。僕はその中でベースとコーラスを担当した。ベースは柳のアドバイスもあって、ステージアクションというか大げさなノリで動きながらピックでラフに弾いた。そこで盛り上がるところでコーラスを入れるというわけである※②。これはやってて気づいたが、結構効果的だった気がする。要はこの曲も基本的にはドラムのリズムと柳の弾き語りでも十分成立するのだが、そこにちょっとちぐはぐな、イレギュラーな要素として僕が加わることで曲に奥行きがでるというわけだ。それに今まで空気だった僕もメンバーであるということをちゃんと印象づけることにも成功したと思う。三曲目も同じくフォークロック調の曲だが、前の曲よりもアップテンポで、打ち込みのドラムパターンもスネアドラムが常に四つ打ちでなっている曲だった※③。そして四曲目には例の石崎さんとのキャンプで作った「砂漠について」をやった。引き続きドラムは打ち込みの演奏で僕がベースボーカル。柳がギターとコーラスだった。柳の曲に比べるとメロディーや言葉のリズムがそれほど強いわけではないので、アレンジが物をいう曲だったから、仕上げるのに一番難航した。内容的にコーラスは入れないほうがいいだろうという柳の意見で、僕一人で歌わざるをえなかったから、曲に厚みを出すのがなかなか難しかった。結局柳のシンプルでありながら印象的なギタープレイと意外ときめ細やかに組み立てられた打ち込みのドラムパターンに助けられた。客の反応は正直分からなかった。そして最終曲だ。一番自信があって深い余韻を残すような曲を持ってきた。勿論柳の曲だ。カンやノイ!などのクラウトロックに影響を受けたような繰り返すヒプノティックなリズムとベースとギターのフレーズがで聴かせていくナンバーで、その土台の上で柳が印象的な言葉をちりばめていく曲だった。録音されたデモはなかなかいい感じだとおもったのだが、打ち込みのドラムでは迫力不足で、やっているうちにどんどん演奏が盛り上がっていくという想定だったが、しりすぼみになってしまっていったような気がした。この点は反省の残るライブだったが、それなりの反応は得られたとおもう。最後の曲が終ると来月またここでライブをやるという告知をしたが、残念ながら半分はライブハウスが流し始めたBGMにかき消されてしまった。久々だったから告知のタイミングはラスト一曲目の手前がベストということを忘れていた。機材をさっさと片付けてステージからはけ、控室に荷物をおくと、僕たちは残りのバンドを見る為にフロアにでていった。ロボコップ以外のバンドで特に興味を惹かれるものもなく、その日は終った。
 次回のライブは七月だった。そのころまでには我々のレパートリーは結構増えてきていて、全てまったく違う曲で臨んだ。柳がどう考えていたかは分からないが、僕はすでに活動に行き詰まりを感じ始めていた。柳の曲は勿論強力だったし、このまま二人でやり続けてもなんとかなりそうな手ごたえは十分にあった。が、やはり打ち込みのドラムとの相性はそんなによくはないと思った。もっとキッチリとしたグルーヴ感のポップやシンセをフィーチャーしたものとかならよかったのかもしれない。ただ、柳も僕もそういう持ち味ではなく、どちらかというとニール・ヤングやザ・バンドみたいに、生の演奏のノリのなかで良さが発揮されていくタイプだった。というかそういうものを目指していた。だからドラマーが必要だとおもったし、音ももっと厚くしたかったから、ギタリストかキーボーディストが欲しかった。ライブハウスや近くのスタジオに張り紙なんかをして他のメンバーを募集したりするべきではないかと思い始めていた。そう考えると、あまり褒められたものではないが他のバンドから積極的に人員を引き抜くという高岸の戦略は非常に効率的で理に適ったものに思えた。結局募集したところで、応募してきてくれた人が我々が欲しい人材であるとも限らないし、第一、そんな張り紙とかをみて来てくれる人の方が少ないだろう。まして、こっちが一番欲しがっているのは、いつの時代も人手不足で一番必要とされているドラマーである。それは柳がドラムの経験を積みたくて色んなバンドを転々としていたことからもわかるだろう。腕があってもそんな芸当ができるのはドラマーだけだ。かと言って我々には横のつながりも特になかった。柳も僕も、実はそれぞれ違う音楽サークルに入っていたが、まともにサークルに関わっていたのは最初の一年ぐらいだった。僕はむしろ石崎さんや錦の大学の軽音サークルの方が顔が広かったが、それもStraySheeps脱退の件や錦と別れたことで付き合いが絶たれてしまったようなところがあった。というわけで二度目のライブで加瀬君が声をかけてきてくれたのは、我々にとって本当に渡りに船だった。
 二回目のライブの時には結局次のライブの予定もたてずに出演したから、特に告知もなかった。その後の活動については特に二人の間で話してもおらず、曲を作ってまたどこかに出演できたらする的な考えしかなかった。正直ふたりで音楽活動を始めた当初の喜びは過ぎ去り初めていて、僕はかなりの焦燥感を覚えていた。柳がどう思っていたのかは全く分からない。けれど相変わらず曲が沢山わいてくるのに対して、僕は殆ど曲が作れなかった。勿論前よりは作れるようになったが、とっかかりみたいなものができるまで時間もかかるし、創作活動と向き合う気力みたいな物がなかった。僕に足りなかったのは単純に創作に向き合う体力だったのかもしれないと今なら違う角度から分析することができるが、当時僕はそれを全て「才能」のせいにしていた。柳が僕が曲を作り始めるかなり前から当たり前のように曲を作る試行錯誤を重ねてきたという発想はこの当時の僕にはまだ無かったし、自分の不規則な生活とそれに伴う体力の衰えが、気力を奪って思うような活動が出来ていなかったという事にも気づいていなかった。皮肉なことにそれら、自己研鑽と日々の体調や生活リズムの管理が、やりたいことへどのような影響を及ぼすかは、社会人になるまでまるで分かっていなかった。受験勉強で学んでも良かったはずだが、実家と学校で生活リズムが半強制的に整えられる環境にいたからそんなことには気づいていなかったのだった。とにかく、僕はこの活動を通して自分が「何者か」になれることを当然期待していたが、柳が同じ方向を向いていたのかは謎だったし、それを確かめるのがなんとなく恐ろしかったからしなかった。自分の考えを話した途端にそれは終わってしまう気がしていたからだ(実際その勘はあたっていた)。そんなわけで特に手ごたえがないままW3としての二回目のライブが終ったとき、次につながるなにかがないまま流れが途切れてしまった徒労感があり、ぼんやりとしながら軽い絶望をともなってライブハウスのフロアをただよっていた。それは当然僕だけに漂っていたムードで、柳はいつものひょうひょうとした佇まいだった。そこに一組のカップルが近づいてきて、柳と僕に話しかけてきた。それが加瀬君と南さんだった。

第六話に続く

※①例えば「魔法のiらんど」などは個人が気軽に携帯電話などからホームページを作れるプラットフォームとして人気を博していた。

※②『ラスト・ワルツ』でのリック・ダンコを参考にした。

※③いわゆる頭打ちと言われるリズムパターン。The Stone Rosesの「I am the Resurrection」やJanis Joplinの「Move Over」のドラムがそうである。

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