リバーポートソング 第六話 オーバーサイズのTシャツやパンツ、CARHARTTのニット帽、Timberlandの靴

【第五話はここから】

【あらすじと今までのお話一覧】

 何にもしないという事がこれ程までに辛い事だとはその時まで考えたことも無かった。看板持ちのバイトはただ座って看板をひたすら支え続けるだけだ。他にやる事も無いしやってもいけない。
 僕が担当した場所はどうやらハズレだったらしい。とにかく周りに観察出来るような対象が何にも無いのだ。
 リーダー格の男に連れられて僕は来た道とは別の、大通りを挟んでモデルルームとは丁度対称的な位置にある小高い丘の道の分岐の所を担当することとなったのだが、左手側は土砂崩れ防止のための白くて巨大な擁壁ようへきがあって、右手は道路があり、その奥は崖になっていてさっきのモデルルームが遠くに見えたが、木々に遮られて別段見晴らしがいいわけでもなかった。近くにはマンションが立っていたがそれ以外は特に建築物もなく、自然と道路と擁壁が全てだった。
「君の休憩は十二時から一時間、看板と椅子はその時持って移動してね。店に入るときにどこかに置かせてもらって」
「トイレとかはどうすればいいですか」
「すぐそこに公園があるからそこで、何かあったら会社に電話して」
 そう言ってリーダー格の男はトコトコと坂を下っていった。他にする事も無いので僕はその様子をじっとみていた。
 十分ぐらいはただぼんやりして過ごすことができたと思う。しかし段々と退屈に耐えられなくなっていた。車もほとんど通らない。基本的にこの立て看板は車の為の案内なのだが、本当にこの場所に僕がいることに意味があるのだろうか。一時間はたったと思って※①携帯を見るとまだ三十分も経っていなかった。
 高良くんが配置されたのはモデルルーム直前の大通りの場所でそこはまだ色々と見るものがありそうだった。僕はビートルズのアルバムを『プリーズ・プリーズ・ミー』から『レット・イット・ビー』まで全部脳内再生したら時間が潰れないだろうか、と考えた。ビートルズに関しては僕は中学生の時に本当にのめり込んで聴いていたので、正確な英語は怪しいにしても、少なくともメロディーは脳内再生余裕だった。
 他のアルバムがあまりにも有名過ぎてあまり語られる事のない『プリーズ・プリーズ・ミー』だけど僕はビートルズのアルバムの中でもかなり好きな一枚で、ポップでスウィートなロックンロールが楽しめる名盤だと思う。ちらほらとカバー曲が並んでいるが、それらのカバーに負けず劣らずの名曲がずらりと並んでいるのが既に規格外のバンドの証拠だ。
 当時シンガーやバンドが自分達で曲を作って自分達で歌う事がそもそも一般的でなかった事を考えると尚更だった。二枚目の『ウィズ・ザ・ビートルズ』はそんな前作の内容を引き継いだ一枚で半分カバーで半分自作曲だった。本格的に自作曲がメインになるのは三枚目の『ア・ハード・デイズ・ナイト』からだった。
 『プリーズ・プリーズ・ミー』はなんとか脳内再生しきったが、『ウィズ・ザ・ビートルズ』の途中で飽きてしまった。アルバムフル再生を諦めて好きな曲からおっかけてきたが、それも途中でやめてしまった。
 時計を見ると十一時を少し過ぎたぐらいだった。まだ一時間ちょっとしか経っていない。もう限界が来ている気がした。結局昼までなすすべもなく僕はその状況を耐え続けた。通行人はその二時間で犬を散歩させてる老人だけだった。十分前から時計ばかり見ていて、十二時になるとすぐに荷物をまとめて移動を開始し、モデルルームまで行く道の途中でバーミヤンがあったから、そこに行くことにした。
 着いてみると店の外の端に我々が担いでいる看板が立てかけてあったので、同じところにパイプ椅子と看板を置いて店に入ると高良くんがいてこちらに気付いて、手招きしてくれていた。同じタイミングで店員が来たので、外に看板とパイプ椅子を置かせて欲しいというのと、高良くんと相席するという事を伝えた。毎週末に僕らのような看板持ちバイトの客が来るから慣れっこなのか、高良くんが既に色々と説明してくれたからなのか、話はスムーズだった。
「キツかったろ」とキャスターマイルドを吸いながら高良くんは言った。
「やばいね。暇すぎて死にそうだったよ」というと高良くんは苦笑した。「喫煙席で良かった?」「全然平気だよ」僕自身は吸わなかったが親父が喫煙者だったので平気だった。
「どうやって暇潰してる?」と注文が終わると僕は尋ねた。「俺はこれかな」と高良くんは手のひらサイズの小さなノートを出して「※②リリックを書いてる」と言った。恥ずかしいと言いながらも中身を見せてくれて、そこにはびっしりと言葉で埋まっていた。
「正直このバイトはクソだと思ってる。暇を耐えられる人ならいいかもしれないけど俺は無理。けどリリックを書くにはまあまあ悪くない。いくつかのビートを現場に行く前に聴き込んで頭に入れとく、それで始まったらそいつを脳内再生して、いいリリックが思いついたらそいつを書き込む」
 なるほど、こんな暇つぶしがあったのかと感心したし、僕も歌詞を書かなくてはいけなかったからすぐ真似しようと思った。「あとは記憶してるぐらい好きな※③フロウを書き出して研究したりしてる」これもすぐ真似できそうだった。
「ただ今日の場所は人通りが多いからハズレだな、あんまり大っぴらにメモできないからさ。でも、さっきすげえ美人が通ったんだぜ。赤いドレスの女でこっちを見て微笑んでくれたよ。こんな何もないところでどうしてあんな派手な恰好してたのか、マジでなぞだったけどな」
 こっちは犬を連れた老人しか通らなかった話をすると高良くんは声をだして笑った。
 さっきは十分が一時間ぐらいに感じたのに楽しい時間はあっという間だ。すぐに持ち場に戻る時間になってしまった。食べ終わったあとの一時間は眠気との戦いだった。寝て看板から手を話して万一車道に落としてしまったらなかなか厄介なことになる。眠気が醒めたころに車が一台やってきて、スピードを落とすと僕の目の前で止まりモデルルームの場所を聞いた。白くてコンパクトなオープンカーで、乗っていたのは若いカップルで二人ともサングラスをかけていた。突然のことだったので多少あたふたしたもののなんとか道を教えた。自分が役に立っていることを多少なりとも実感できたのでうれしかった。なにせ車も三分に一台通るか通らないかのところだったから。その後ようやく僕は作詞の作業に着手した。
 ところがなんにも出てこなかった。今あるフレーズに歌詞をつけることもできず、新しい歌詞を書き出すこともまったくできなかった。この時点では高岸との会合で多少なりとも僕も自作曲を発表することが期待されていたから、焦りと自己嫌悪にさいなまれた。
 そのあと、どうやって時間をつぶしたのか全く覚えていない。めちゃくちゃ苦痛だった事だけは確かだ。三時五十分ぐらいにリーダー格の男と一緒に紙袋をもっていたベテラン風の若い男がやってきて「もういいから看板と椅子もってついてきて」と告げに来てその日の業務は終了した。
 モデルルームに戻ると僕ら以外はもう到着していて、高良くんとリーダー格がタバコをすっていた。僕らを見るとリーダー格が全員を集めて挨拶をして解散となった。結局皆電車で来ていたので三十分ぐらいかけて皆でとぼとぼと駅まで向かった。リーダー格は仕事が終わった途端に気さくな感じになり「携帯機種変したい時に言ってね、安くしとくよ」と言って名刺を配り始めた。どうやら彼は平日は携帯ショップに勤めていて、小遣い稼ぎでこの仕事をやってるらしい。
「うちの給料だけじゃなんともならんのよ」と僕を呼びに来ていた若いベテランに愚痴っていた。ベテランはフリーターらしく、リーダー格に「オレんとこ就職しなよ、人手不足でさ」とか言われて勧誘されていた。世の中の厳しさを初めてリアルに垣間見た気がして妙に記憶に残っている。
 僕も高良くんもぐったり疲れていて、駅までの道中お互いポツリポツリと会話を交わすぐらいだった。駅の改札口で僕たちは連絡先を交換して※④お互いのライブに行く事を約束した。「そうだ、コレやるよ」と言って高良くんが鞄からCDプレイヤーを取り出してそこからCD−Rを取り出し、薄いプラケースに入れて僕にくれた。
「オレが編集した日本語ラップのベストオブベスト。後で曲目メールで送るわ」
 高良くんはJRで僕は田園都市線、しかも反対方向だったからそこでお別れだった。
 この時高良くんからこのCDをもらわなければ、ヒップホップを聴くのがもっと遅くなっていたかもしれないし、リズムに興味を持って音楽を聴くのが遅くなっていたかもしれないし、アメリカの音楽に傾倒し始めなかったかもしれない。ただ新しい友情が始まっただけでなく、そういう意味でも非常に重要な出来事だった。僕は早速そのCDを帰りの電車の中で聴いた。家までは一時間以上かかる。時間だけはたっぷりあった。

 高良くんから「昨日はお疲れ。曲目おくるねー」という文面と共に※⑤曲目が送られてきたのは結局次の日の朝だった。

・「人間発電所」Buddha Brand
・「証言」Lamp Eye
・「F.F.B. (DJ MASTERKEY Remix)」キングギドラ
・「Let me know ya…」TOKONA-X
・「リスペクト」RHYMESTER feat ラッパ我リヤ
・「¥」THA BLUE HERB
・「病む街」MICROPHONE PAGER
・「3 ON TREE (三銃SH*T)」NITRO MICROPHONE UNDERGROUND
・「般若今日」般若
・「ECDのロンリーガール」ECD feat K DUB SHINE
・「Galaxy Pimp 3000」NIPPS ft. Muro & Dev Large‬
・「Funky Methodist」Buddha Brand
・「真実の弾丸」キングギドラ

 僕はそれをスーツに着替えながら読んだ。その日また同じバイトが入っていた。初回で勝手がわからず連続でいれていた。僕は二日連続で同じ現場だったが高良くんはその日は現場におらず昨日と同じ面子は、リーダー格と仲が良さそうだった例のフリーターの彼だけで、僕の担当場所は昨日高良くんが担当していたモデルルームに続く道の直前の場所だった。近くに眼鏡屋があったのでずっと眼鏡屋に行き来する人を見ていた。あとは通り過ぎる車のナンバープレートの数字を足したり、地名に注目したりしていた。その日も歌詞は書けずただただ早く終わってくれと祈りながら一日を乗り切った。高良くんからもらったそのCD‐Rを僕はその日の行きと帰りにまたずっと聴いた。
 収録されていた音源全てに最初から夢中だったわけではない。しかし、※⑥古いソウルやファンクやJazz、R&Bの美味しい部分がサンプリングされている時点でもう格好良かったし、心地よく繰り出される言葉達の快楽に僕は夢中になっていった。
 六月になってKatie’sのライブ準備が忙しくなってきた頃に高良くんの勧めで僕はBuddha Brandのベスト盤とキングギドラの1stアルバム『空からの力』を買ってその二枚に夢中になり、ほとんどの曲のリリックをそらでラップできるぐらいのめり込んでいた。
 結局高良くんと現場で会うことは二度となかったけれども、その後も高良くんとの交流は続き、彼が都心に出てきた時ちょくちょく会う様になった。
 高良くんに付き合って都心で買い物をするうちに僕は高良くんの真似をしてヒップホップのファッションを普段着に取り入れ始めた。丁度Katie’sでのライブが終わって石田さん達と合流するぐらいから、ゆったりとしたオーバーサイズのTシャツやパンツ、CARHARTTのニット帽、Timberlandの靴などをだんだんと身につける様になって、高岸に会う度に「どうしちゃったの?その格好」と言われていた。僕も高岸にヒップホップを勧めてみたが彼にはあまりピンとこない様だった。
 しかしヒップホップに傾倒しながらも僕はラップを始めることも、バンドを辞めることも考えてはいなかった。当時、何事においても自信が持てなかった自分が、セルフ・ボースティング(自己賛美、自分自慢)主体のラップが出来るとは思ってなかったし、言いたいこともなかった。かといってスチャダラパーやキック・ザ・カン・クルーやリップスライムの様に楽しい感じのラップも自分の性に合ってるとは言い難かった。何より歌詞や言葉、リズムに対して真剣に向き合ってこなかった自分にとって、言葉やリズムに重きを置いた音楽を始めるのはなかなか大変そうに思えたのもある。
 それでも日本語ラップを口ずさむ事で根拠のない自信の様なものは少し得られたし、なによりも音楽を聴く上で今まであんまり気にも留めていなかったリズムと歌詞に注目する様になっていったのは自分の中で大きく、革命的な出来事と言ってよかった。今まで聴いていた音楽もベースやドラムに注目して聴くようになっていた。その結果いくつかの楽曲はより魅力的に思えたり、いくつかには物足りなさを感じるようになった。
 そんな変化が僕の中で起こっている頃にテストやレポートもひと段落し、七月の下旬に僕たちは二回目の練習、「すとれいしーぷす」としては初めての練習に入った。場所は前回同様池袋のスタジオだった。僕と高岸はその日の為にテストの合間をぬって集まり、エーテルワイズの曲のギターの割り振りと僕ら独自のアレンジを相談したり、高岸の新曲のデモを二人で作ったりしていた。今回は高田馬場で待ち合わせて二人でスタジオに向かった。
「おー久しぶり。元気してた?」スタジオに着くと石田さんが元気に出迎えてくれた。石田さんは髪を三つ編みにしていた。この人は自分の髪型で遊ぶのが好きだという事がだんだんわかってきた。
「あ、メガネやめたんだ、その方がいいよ」
 変化は何も僕だけに訪れていたわけではなく、高岸はしょっちゅうずれる眼鏡をコンタクトにして髪を伸ばし始めていた。実はKatie’sのライブで演奏中にメガネがぶっ飛んでフレームが破損してしまい、それをセロテープで暫くとめて使っていたのだが、さすがに恥ずかしいのでコンタクトを作ったということだった。表向きの理由はそれだが、僕は高岸が石田さんに「君はメガネをかけてない方がいいよ」と言われていたのを聞いていたから、それでだろうなと思っている。
 言ってなかったけど高岸は顔は整っている方だった。ただ特徴的な少し尖った耳の形をしていたので短い髪型だときつめの印象を受ける。それとフレームがガタガタになっててしょっちゅうずれる似合ってないメガネをやめたわけだ。なるほど高岸はだいぶ男前になっていたと言ってよかった。
 そして石田さんから望み通りのコメントをもらって嬉しさを全く隠さない高岸をみて、なんだか僕はざわざわした。高岸の行動力や※⑦作曲の才能を妬ましく思いつつも彼に憧れを抱いていた当時の僕には理想の高岸像みたいなものがあっだんだと思う。石田さんはとにかくそれを逸脱させる「危険な」存在だった。そして何よりもタチの悪いことに当時の僕はそんな高岸の才能や良さを「自分だけが知っている」という事で他人に対して優越感を持っていた節がある。ところが石田さんは高岸の良さにあのライブで気づいてしまった。だから全く実績のない我々とバンドを組むことを承諾してくれたし、それだけでなく高岸のビジュアル的な魅力すらも引き出し、彼の魅力を誰にでもわかるようにしてしまった。
 石田さんは他の人にはないスター性もあったし、面倒見も良いし性格的にも魅力的な人物だった。ただでさえ自信の欠如していた僕には眩しすぎる存在だった。そんな彼女が、まだ僕の手の届く範囲にいた高岸を引っ張り上げて別の次元に連れて行こうとしていた。遅かれ早かれ高岸は自分の手で成長していたかもしれない。しかしそれを僕が現実を受け止める準備ができる前に、彼女が押し進めてしまったのは確かだった。僕の石田さんに対する感情は、石田さんの人柄が良いだけに、なかなか複雑なものがあった。そしてそれは完全に僕が理解できるスピード以上で進化し始めた高岸に対しても同じだった。僕が「すとれいしーぷす」を辞める事になる萌芽はすでにこの頃からあったわけだ。

第七話に続く

※①iPhoneが発表されたのが2007年。これから3年後だった。当時あったのは折りたたみ式のガラパゴス携帯で、スマートフォンなんて影も形もなかったのだ。だから携帯電話で暇をつぶすにも限界があった。携帯でちゃんとみれるWEBサイトも限られていた。docomoならiモードで結構様々なコンテンツやゲームなどが楽しめた筈だが生憎僕はauだった。

※②ラップの歌詞のこと。高良くんのリリックはボースティング(自慢すること。オレのスキルはやばいとか、金持ちとか、異性にモテるとかざっくりいうとそんな感じ)が多めな感じだった。

※③フロウとはラップの歌い方、歌い回しの事だが、ここでは歌詞を含めた一連のラップの流れ的なニュアンスで使われている。

※④このあと一月半後にKatie’s been goneのライブがあるのだが、その時には高良くんは誘わなかった。誘う勇気が無かった。

※⑤今の僕なら2004年の5月当時にすでに発売されていた以下の曲を加える。スチャダラパー「ヒマの過ごし方」、キミドリ「自己嫌悪」、リブロ「胎動」、降神「Rainy Morning」、RIP SLYME「Cheap Talk」、KICK THE CAN CREW「one for the who, two for the what」。ただしこれはあくまで僕の好みだ。高良くんのリストもそうで、これが2004年時点の日本語ラップを代表するリストだなんて言い張るつもりは毛頭ない。

※⑥打ち込み系の音にラップがのったものは最初は殆どピンとこなかった。結局楽器の生音に僕はとことん慣れきっていたんだと思う。洋楽ヒップホップとの出会いがA Tribe Called QuestやThe Rootsだったらもっと早い段階でヒップホップを聴きあさっていたかもしれない。

※⑦後になってわかるのは人が才能と呼ぶものの殆どが地道な努力や知識の蓄積による成果だという事だ。高岸は作曲の才能があるというよりはコツコツと必要なことをやり続けていただけだった。僕らの界隈で本当の意味で才能があったのは柳だけだったと僕は思っているし、その柳もコツコツと必要な事をやり続けていた。才能でなんでも片付けて勝手にいじけて努力を放棄していた当時の僕が2人に敵うはずがなかった。

第七話に続く

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