僕らにはまだ自前のドラムキットもなかったし、アンプもなかった。資金もそこそこ貯まって来てはいたが、自前のアンプなどの高い機材を買うほどではなかった。だからわざわざバンで移動する必要もなかった。けれども車で遠征するなんて如何にもバンドっぽいから、僕らは格安のレンタカー屋でプロボックスバンを借りた。東京から大阪まで四人がそれぞれ新幹線で往復するよりも安上がりというのもあった。僕の故郷のような田舎なら話は別だが、東京の大学生が四人集まって半分免許を持っていればいい方だ(なにせ東京近郊は電車でほぼどこでもいけるから)。W3は珍しく全員が免許を持っていた。しかし、レンタカー屋で免許を登録したのは柳と西沢君と僕の三人だったので、この三人で交代で運転して大阪を目指すことになった。町田まで寄って機材を回収していたら大幅な時間のロスになる。かと言って機材を持っていかないわけにはいかないから、西沢君はギターだけ持ってきて、キーボードは柳の物を持っていくことにした。前日の夜に出発、高速で移動して、朝大阪に到着し、少し休んでリハーサル、本番、そのまま夜出発して深夜から明け方に東京に着く、という今から考えると無茶苦茶なスケジュールだった。誰のアイデアだったのかどうやって合意に至ったのかまるで思い出せない。西沢君は前日の昼から僕の家に来ていて、夕方交代でシャワーを浴びて二人でレンタカーを取りに行った。運転者の免許登録が必要だったからそこで柳と落ち合うとまずは僕の家に行って機材を拾い、その後柳の家で残りの機材を積み込んだ。八王子方面で南さんを拾い、八王子インターから東名高速に入った。高速に入る前に柳に運転を代わって、西沢君と南さんは後部座席にいて寝てしまっていた。寝ててもいいと言われたがずっと起きていて僕らはぽつりぽつりと少しずつ会話した。
前回の十一月末のライブから今回の大阪遠征までそれほど時間がなかったが、僕たちはスタジオで追加で一曲を完成させた。それは僕が久しぶりに一人きりで作った曲だった。柳が一人でいい曲を書いてきたことに対抗したわけではないけれど触発はされていたと思う。当時色々と考えていたこと、柳と成戸が二人でいるのを目撃したこととか、高岸に言われたこととか、そんなことを自分なりに盛り込んで出来た曲だった。勿論柳にはそんなことは何も言わなかった。初めてみんなに聴かせた時、みんな気に入ってくれたが、W3らしさみたいなものが新しく定義されたばかりなのにこれはW3っぽいかと言われたらそうではなく、これは実に僕っぽい曲だった。だがそんな事を気にしているのは自分だけで、みんな次のライブでやろうと言ってくれた。タイトルは、と聞かれ、決めあぐねていて披露するまでに決めるつもりだったけど忘れていて咄嗟に「リバーポートソング」と答えてしまった。柳は「やめたほうがいい」と真顔でいうから、理由も聞かず、それならばと「映画館にて」という当たり障りのないタイトルにした。
「そういえばさ。リバーポートソングって、なに? ずっと気になっていたんだけど、どんな意味なのかなって」そんなことがあったからその質問が出たのは自然な流れだった。落ち着いてそのことを尋ねるには今しかないと思えた。だが、期待した返事はない。運転席を見ると、運転に集中していて聞こえなかったようにも、どう答えたものか思案している様子にも見えた。
「そんなにいい話でもない」
聞こえていないのかと思ったころにようやく柳は話始めた。
「あの大雪の日。お前と偶然出会う前にバンド辞めてきたって言ったろ。そのバンドの話。前も言ったけどパンクバンドで、ギターボーカルの奴が主に曲を作ってた。俺の前任者のギタリストも曲つくるって言ってたらしいんだけど一向に曲が出来てこない。それでみんなで詰め寄ったみたいなんだ。本当に作ってくるのか、いつできるのかと。そしたらそいつは、いまちゃんと作ってる。曲名はリバーポートソングっていったらしい。それがどこから来たのかはわからない。オーシャン・カラー・シーンに似た名前の曲がある。ザ・リヴァーボート・ソング。それかもしれない。それ以来バンドの中でリバーポートソングが、出来やしないこと、存在しないこと、達成されないことの代名詞みたいになってジョークのネタとして使われるようになった。らしい。俺が入った時には言った当人は辞めてて、そうなっていた。
それが何故かあの時パッと浮かんできた。リバーポートソング。思えば縁起がよくなかったかもな。あの時だけのステージだと思っていたからぴったりだと思ったんだろう。意識してなかったけど。その時はただ思い浮かんだだけだったんだ」
「そうか」曖昧な返事が投げ出されてこの会話は終わった。色々とあの時期のことを思い出してしまい、車窓の景色を眺める。真っ暗でなにも見えない。ライトに照らされた目の前しか見えなかった。ずっと薄くかかっているラジオからMGMTの「Time to pretend」が流れてきた。レジャー用というよりは営業車に分類される車だったこともあってCDが聴けるようにはなっていなかったから、僕たちにはラジオだけが頼りだった。「Time to pretend」は本当につい先日リリースされたばかりのアルバムに入っている曲でMGMT自体もその時初めて知った。シンセサイザーが高らかに鳴り響いていた。ギターの時代は終わってしまったのかもしれない。柳が音量を大きくした。「いいね」というと柳が「静かに」といった。曲が終わるとラジオを消し、柳が話し始めた。「聞いてもらいたいことがある」
そこから柳が話したことの半分はもう予想出来ていたこと、知っていたことだった。あのフォトセッションから成戸と話すようになったこと。付き合うようになったこと。結婚しようと思っていること。就職しようと思っていること。バンドを離れること。
当初、思いのほか僕は冷静だった。後半は予想すら出来ていなかったことにも関わらず。
「成戸が辞めて就職しろっていったのか」「いわない」「じゃあなんだ。辞めなくてもいいし、就職も別に今じゃなくてもいいだろ」
僕は彼をじっと見つめていた。これほど長い間彼の顔を見ていることは今までなかった。そして彼の顔つきがなんとなく昔と変わってしまった様な気がした。ハンドルから片手を離し、口にあてて、暫くしてから柳はいった。
「子供ができたんだ」
二人ともなんにも言わない時間が流れた。沈黙とは裏腹に、様々な疑問、非難、嘲り、浮かんでは消え、僕の頭は言葉でいっぱいになった。その沈黙を柳は承認ととっただろうか。留保ととっただろうか。僕にとっては事実の否定だった。時間が経てばそれは高速道路の闇の中に溶けて消えてなくなって事実ではなくなるような気がした。が、そんなファンタジーにずっとしがみつけるほど愚かにもなれないし冷静でもいられない。
「次のサービスエリアで止まってくれ」
足柄SA。午前二時。その中心地は思ったよりも賑わっている。だがそんな喧騒からすこし離れた入口附近。「そこでとまれ。駐車しなくていい」防寒具と財布、電話だけもって車を降りた。どんどん歩いていくと、駐車しようとしていたから、そばに駆け寄って運転席の窓を叩く。「いけーーーーーー」思い切り何度も叫んだ。「はやくいけーーー。ここからでていけ!」柳は何か言おうとして車から出てこようとしたから僕は「絶対にいってはいけないこと」を柳に向かって叫んだ。本心ではなかった。が、それは効果があった。激怒してくれた方がましだったが、そのかわりに彼は哀れむ様な顔をして静かに車に乗り込み、車はサービスエリアから僕をおいて遠ざかっていった。後ろの席で西沢君と南さんがもぞもぞと、なにごとかと起きだし、こちらをうかがっていたのがちらりと見えていた。僕が柳の姿を見たのはそれが最後だった。
数日後。僕は町田の、例の西沢君を誘ったあのファミレスに西沢君といた。二人は食べれるだけ沢山注文してやけ食いしたが、そんな努力の証である皿たちは直ぐに片付けられ、飲みかけのドリンクバーのコップだけが虚しく机に残った。形としては大阪のライブをバックレて、柳と二人で運転させて東京まで帰らせたお詫びということになっていたから全部僕のおごりだった。
ライブでは予定していた曲目は変えず、共作曲を中心にそのままやったということだった。西沢君は「おもしろそうだし、どうせ最後だから」という理由で、折角持ってきたキーボードもギターも弾かず、僕のベースを弾いた。僕が歌うはずだった新曲、「映画館にて」は柳が歌った。南さんはライブが終わると一人でスネアドラムとペダルを担いで新幹線でかえってしまったそうだ。バンド資金の中から新幹線代を出そうとしたが受け取ってもらえなかったらしい。帰りは西沢君と柳の二人で、彼によると「運転は辛かったが、まあまあ楽しい時間」を過ごしたらしい。ライブ当日、リハ前とリハ後に少し眠ったそうだが、まともな睡眠が不足していたので二人で交代交代、休み休みだったから、東京まで行きの二倍近くかかったようだ。柳は西沢君をわざわざ町田で機材と一緒に降ろしてくれたらしい。西沢君には申し訳ないことをした。柳に対してはもう怒ってもいなかった。だが同時に彼に言ったことや、後始末としてさせてしまった事で申し訳ないとも思っていなかった。柳はどんな思いでその後僕らの街まで一人で運転して帰ったのだろうか。自分の機材を車から降ろし、家に運んで、レンタカーを返し、歩いてまた家に帰る。文句も言わず、淡々とやったんだと思う。そういうやつだった。かと言って彼もロボットではない。感情的になることも勿論あるし、あったかい笑顔を見せることもある。そう、数年後、成戸のFacebookにアップされていた写真で、子供と一緒に写る彼に、僕は見たことのないような笑顔を見た。
僕は僕で足柄サービスエリアからの脱出劇を西沢君に話した。お店の店員に一般道までの出方を聞き、歩いて御殿場駅まで行った。意外と早くついてしまったから始発まで時間をつぶすのに苦労した。こんなことならサービスエリアでもっとゆっくりすべきだったと後悔した。後は普通に鈍行列車を乗り継いで東京まで帰るだけだった。
「疲れましたね」ストローが入っていた袋をまるめたゴミをテーブルの上に投げ捨てながら西沢君がいった。ソファーに浅く腰をかけ、背もたれに完全に身体をあずけ、二人ともだらしなく座っていた。ここで僕たちは石田さんが抜けた後のStraySheepsへの問いかけを自分たちにすることになった。柳と南さんが居なくなったW3は存続できるか。できたと思う。僕らはいいコンビだったし、曲もかけてた。W3に出来かけていた評判があれば新しいメンバーもすぐ集っただろう。でも続ける気力は無かった。
「疲れた。とても」
「どうします。バンド」
「どうしようもない。もう終わりだよ」本心は違った。まだやりたい気持ちはあった。
「このまま終わるのもしゃくですね。解散ライブでもやりますか」
二人とも全くその気はなかったけれど、解散ライブの構想を二人で練った。知り合いや今まで対バンしたなかでこれはというドラマーやギタリスト、ボーカリストを招聘しようという話になり、挙句は自分たちの出番減ってもいいからベースやキーボードも他の人にやってもらってもいいんじゃないかと、夢のW3バンドを考えた。結局四人体制のW3で一番楽しかったのは西沢君とバンドをどうしていくか話し合ってるときだったかもしれない。そういうバンドは計画倒れになることが多いが、W3が素晴らしかったのはそうでない所だ。ビジョンを現実化するのが得意だった。特に西沢君が来てからは考えていたことは、おおよそ形になった。勿論理想通りに全てが上手くいったわけではなかったが、試したいことは試せたし、得られた結果は思ったものとは違ったが、満足いく楽曲も作れた。でも、続けられなかった。
解散ライブの空想にも飽きたころ、我々は店を出た。西沢君の家にベースとエフェクターなど、僕が車に置いてきた機材をとりにいった時にはもう結構な時間になっていて、終電は逃していたが、泊まる気力も無かったから帰れるといって、西沢君もその嘘には気づいていたと思うが止めず、小田急線でなんとか下北沢まで出ると、京王線に乗り換えて吉祥寺までは行った。そこで駅近くのカラオケに入って歌いもせずに堅くてタバコの臭いがしみついたソファーに横になった。翌日は吉祥寺でスタジオ練習をするときによく使っていたあのバスに乗って家まで帰り、また寝た。その日の夕方に起きた僕は近所のハードオフにベースとエフェクターなどの機材を売りにいった。量が多かったからまともなお金にはなったが一つ一つは期待した金額に遠く及ばずだった。楽器屋に行けばもう少し妥当な値段になったかもしれないが面倒だった。次の日にその金でリクルートスーツを買い、高岸に連絡をとって僕は就活を始めた。「お前はついてる。今からだったらまだギリギリ間に合う。ま、半分終わってるけどな」といって色々と教えてくれた。W3の解散についても知らせたが、それについては特に何もいってこなかったのは有難かった。ある日スーツ姿で半分あてつけのつもりで僕は柳の家の方向に向かった。同じ町に住んでいるから何度か偶然会うことはあったから、あれからずっと鉢合わせしたらどうしようかとびくびくしていたが、それもなんだが馬鹿馬鹿しくなって、自分から奴の家の近くまで行ってやろうと思っていたのだ。酷く幼稚な考えではあったがそれしかないと思って向かったが、柳の住んでいたアパートはすでに解体されていた。古いアパートだし、無理もなかったが、ショックだった。もう柳とこの街で鉢合わせすることもないかと思うと安心したが、取り残されたような気持ちはもっと強くなった。
その後はつまらない話が続く。
就職活動は辛かったが、頭の中でなっている音と実際になっている音の理想のあいだで苦しむことも、もうないと思うと気が楽だと言い聞かせなんとか続けた。ありがたいことに団塊の世代の定年退職の波が来ていて、リーマンショックによる世界的な不況が押し寄せて来てはいたものの、就活自体は売り手市場で、大学もネームバリューだけは立派だったので、僕みたいな落伍者でもなんとかなった。それどころかそれなりに名の知れたところに滑り込むことが出来た。とんでもないブラック企業だったのはご存知の通りだ。それが狙いでもあった。あのサービスエリアの一件から僕は自分の中にある暴力性に気づいてしまった。あんな酷いことを人に言えてしまうのかとずっと考えてしまっていた。それは反省ではなく発見だった。反省できない自分にも失望した僕は自分をとことん追い詰めて破壊してやろうと思った。その結果、会社でその内なる暴力性は開花し、更に自分を蝕んだ。他人にそれが向かなかっただけマシだった。
そんなわけで僕は思っていたほど苦労することなく職にありつけたのだが、可哀想に、西沢君は院に進学したこともあって第二の就職氷河期とも言える買い手市場の時期に当たってしまい、思ったよりも苦労したと言っていた。西沢君とは解散した後も彼の卒業前まではちょくちょく会っていたりしたが、お互い忙しかったこともあって彼が就職してからは一度も会っていない。だから今何をしているかも分からない。時々無性に会いたくなる。
最後に絶対安全毛布の話をしよう。四月になり、五度目の春を大学で迎えた。同級生達は半分以上卒業して消えた。卒業式にはお腹の少し膨らんだ成戸もいるはずだったが、その日は大学に近寄ることすらしなかった。錦も卒業して就職しているはずで、働きながら絶対安全毛布は錦を中心に続いていくものばかりだと思っていた。六月。絶対安全毛布のライブに行くことにした。錦と会って話がしたかった。やり直せたら、という未練、希望がないわけではなかったと思うが、あのサービスエリアの一件で例えあちらにその気があったとしても自分にはその資格はない様に思えた。が、僕の心がまっとうな方向にまた動きだすとしたらもう錦との再会にかけるしかなかった。しかし、ステージに登場してきたボーカルは錦ではなかった。別の女の子だった。歌は上手い。ひょっとしたら錦よりも。曲も錦が書いたものを引き続きやっていた。けれどそれはもう別物だった。なにかが変わることを期待して三曲聴いたが、無駄だった。端正で原曲に忠実だが魂のこもっていない、一番たちの悪いカバー曲を聴かされているみたいだった。四曲目が始まりそうな所で熱狂するオーディエンスをかきわけてライブハウスをでた。それから絶対安全毛布は意外と長く続いた。といってもそれから二年で結局解散した。アルバムがインディーズで一枚出ている。買って聴いてみたが、錦がいた痕跡は曲のクレジットの中にしかなかった。錦なきあとの絶対安全毛布を引っ張っていただろう藤田さんは、風の噂によるとアラスカで現地の資源開発の企業で働いているということだった。謎のコネや人脈がある人だからそれが本当だったとしても驚かない。
こうして僕が関わった三つのバンド、StraySheeps、絶対安全毛布、W3は、それぞれ大いなる可能性をもちながらも、邦楽バンドシーンの歴史に名を刻むこともなく、あっけなく解散した。今でも誰かの記憶に残ってくれていることを願う。あれからいくつプロのライブをみたかわからない。ポール・マッカートニーもブライアン・ウィルソンもみた。けれど白状しよう。いままでの人生で一番感動したライブは彼ら、レジェンドのライブじゃない。それはあの五年間の中にある。それは実はStraySheepsでも絶対安全毛布でも自分たちW3のライブですらない。Lodgeというバンドだ。もう会場も忘れてしまった。吉祥寺だった気がするが違うかもしれない。下北沢だった気もする。僕は先輩のバンドが目当てでそこにいた。Lodgeの出番はそのバンドの前だった。まず、彼らが変わっていたのはステージでの立ち位置だった。ギターボーカルが中心ではなく、ステージの左側の袖で歌っていた。右袖にはベースとキーボード、ドラムは中央奥。それでは中央手前には誰がいたのか。最初はだれもいなかった。そこは最初ぽっかりとあいている場所だった。曲はファンタジックな世界観を得意としたポップなバンドミュージックだった。アレンジも気が利いていて、チアフル。すぐに彼らを気に入った。ステージにはギターボーカルの奥でタンバリンを叩いて踊っているだけの背の高い女の子がいて、彼女の雰囲気もよかった。最後の曲。その時になって奥にいたその女の子がステージの中心に出てきて自由に踊り始めた。風船をいくつかふくらまし、それを投げ、ステージ中央で遊んだり、シャボン玉を吹いていたりして、無邪気にステージ上で遊んでいた。普通そのようなものを見せられたらこちらは醒めてしまうが、そうはならなかった。そこには失われてしまった純粋さみたいなものがあった。勘違いしてほしくないのはそれはあくまで、彼らの音楽があってこそだということだ。ステージの左袖にいたギターボーカルの彼はずっとステージの中央を向いて歌っていた。それはこのステージ主役は自分ではなくて、この曲であり、ステージ中央の女の子なんだ、といっているように見えた。そして彼女は聴いている僕たちに向け、これは僕たちの曲、僕たちの話をしているんだというように訴えかけてる様にも見えた。シャボン玉や風船が客席の僕らのところまでサウンドと共に届けられて、ステージと客席の境界が曖昧になったように感じられた。その後、似たような経験を求めて、何度か彼らのライブを見たが、あの女の子との姿はもうなく、ボーカルもステージの中央に陣取っていて、曲のスタイルも大分変わってしまっていた。僕がみたあの演奏形態は本当にあれ一度きりだったのかもしれない。でも、それは永遠に自分に刻まれてしまった。願わくば。願わくば僕たちのライブも、このように誰かの記憶に深く残っていてほしい。そんな人が一人でもいたらもう十分だ。
気づいたら僕はもうすでに三十代半ばに差し掛かっている。もう青森の実家に帰ろうかとも思っている。一人っ子だし、おふくろは一人で住んでいる。まだ元気だが心配だ。たまに帰るが僕にどうなって欲しいとか、孫の顔が見たいとかそんなことは一切言わない。それはとてもありがたいし、同時にとても悲しい。
僕はもうCDプレイヤーもレコードプレイヤーも持っていない。Spotifyで音楽を聴いている。あれだけ沢山あったCDやレコードは半数以上売ってしまい、残りは引っ越しの時に詰めた段ボールの中でずっと眠っている。引っ張り出してジャケットを見る気にもなれない。それでも音楽は一時の慰みを僕にくれるから通勤の行き帰りに聴いているが、じっくりと一枚のアルバムに耳をかたむけることもほとんどない。
僕の友人達。仲間たち。どうして彼らは消えてしまったのだろうか。どこに消えてしまったのだろうか。僕には本当になにもわからない。時々偉大なロックバンド、アーティストたちのドキュメンタリーを見る。そしてこう思う。僕たちに足りなかったのは才能だったのだろうか。才能ならみんな十二分にあった。ただ僕たちは続けることが出来なかった。続けていたらなにか起きていたと思う。最初から優れていたバンドなんてそうそうあるわけじゃない。二枚目、三枚目のレコードで化けたバンドなんて沢山いる。それを僕らは殆どろくにアルバムも作らないうちに解散してしまった。なんて勿体なかったんだろう。
スーパー銭湯のカプセルホテルの狭苦しい穴蔵の中で彼らを思い出す。何がいけなかったんだろう。どこで間違ったのだろう。願わくばあの頃に戻りたかった。錦とやり直したかった。柳とバンドを続けたかった。StraySheepsを辞めなければよかった。死んだ親父ともっと話すべきだった。社会人になってから付き合った彼女と別れず、石崎さんや石田さんと交流を続けるべきだった。もっとまともな就職先を見つけ、西沢君とバンドを続けるべきだった。柳に謝って、成戸と一緒にいる二人を祝福するべきだった。後悔ならいくらでも思いつく。
僕は夢想する。
どこか暖かい島にみんながいる。自由に音楽を作ってそれを世界に発信する。柳や錦が自由につくった音楽を高岸と西沢君がプロデュースして、僕が世界に発信する。成戸がみんなの写真をとる。そして石崎さんがみんなの世話をしてくれるんだ。その隣には勿論石田さんがいて、彼女も時々バンドで演奏する。
逆に僕には想像できない。柳や高岸や錦が、LINEの既読スルーに気をもむのを。会社の上司に叱られて頭を下げるのを。飲み会で愚痴をこぼすのを。Apple MusicやSpotifyなどのストリーミングサービスで音楽を聴くのを。通勤電車でもみくちゃになりながら会社に向かうのを。仕事が終わってTVを見ながらぼんやりとビールを飲んでいるのを。家庭をもって住宅ローンの返済に追われるのを。休日にへとへとになりながら子供の世話をやいているのを。僕には全く想像できない。僕や僕の年代の人たちが普段しているこれらのことを彼らがしているのを。僕のFacebookの検索履歴はあの頃出会った人たちで埋まっているが、皆、更新は途絶えている。だが、最後の更新の内容がもし順当に続いているなら、彼らもまた平凡で退屈で幸福で、ありふれた日常を続けているはずだ。
結局まともに眠りにつけずに僕は十二月の土曜日の朝の寒気の中、頼りない太陽に照らされてここにいる。2010年代が終わり、2020年代が始まろうとしている。僕もありふれた日常に戻っていかなくてはならない。いや、僕の日常は彼らのようなありふれた日常にすらなっていなかったのかもしれない。心を過去に置き去りにして、抜け殻のまま今を夢遊病者の様にパターン化したプログラムの中でさまよっている。彼らにとって僕は遠い過去だ。それはわかっている。問題は僕にとって彼らが遠い過去ではないことだ。つい昨日の事であるかのように彼らの思い出は鮮明に立ち上がってきてしまう。決して触れることはできないが、手を伸ばせば直ぐ届いてしまう位には近くにいるように感じてしまっている。だとしたら僕の中にいる彼らを更新しなくてはならない。今の彼らに会って幻滅しなくてはならない。僕は僕自身を救うためにそうしなければならない。
そう思った。
「映画館にて(リバーポートソング)」
そこでみた西部劇は
足の長い男達の話
同じなりにしてみても
またすぐに撃ち殺されるだろう
昨日みた恋の映画
スマートでキュートな人だけが
膝をついて祈っても
さだめから目覚めないと知る
わかってるはずさ
君の言うこと話すことも
けれどなにかがへんだ
うまく言えやしないけど
肌で感じてるんだ
回転するレボルバーに合わせて
君といつまでも
踊らしてくれよ
歩く君を見ていた
音楽が垂れ流されていた
一言も交わさずに
目が合えばわかりあえるはずさ。
こらえきれはしなかった
人前でみっともないけれど
涙あふれでた
立ち上がる君にやられたのさ
歌う詩人を見た
銀色に光り輝いていて
あって話をしても
何故だろう嫌われるきがして
受け止めてたいのさ
君が見せようとしてることを
言葉で表さずに今
やってみせるから
突き刺すようなレイザーの瞳を
反射させ続けて君は
わかってるはずさ
皆が言うこと話す事も
けれど何かが変で
それを映し出している
やってみせるから
後ろ指が致命傷になろうとも
君といつまでも
おどらしてくれよ
あとがき
本来この様な不純物が物語の終わりについているのは蛇足だとは思うが、終わるに近づくにつれ、書かずにはいられなくなったので許してほしい。要らないとおもったら読むのを辞めていただきたい。
最終的に二十万字程度の長さになってしまったわけだが、勿論、こんな長さになるなんて全く考えておらず、当初はW3の周辺の物語を適当に語って中編程度で終わらせるつもりだった。そもそも柳は破滅型のロックスターみたいな性格、『オン・ザ・ロード』のディーン・モリアーティーと『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンのミックス、みたいな、殆ど荒唐無稽なレベルでぶっこわれた人物を想定していた。だが残念ながらそんな人物に私は会ったことがない。そのような人物をある程度のリアリティを保って生き生きと描くことなんて到底無理な話だったし、StraySheepsの物語を先に語り始めたことによって狭まってしまった話のスケールをはみ出すような存在を現出させることはできなかった。そこまでいかないまでも、『海の上のピアニスト』の主人公や『代書人バートルビー』のバートルビーにみたいに、「僕」は柳が破滅していくのを見守るしかない、みたいな終わりかたも考えていたが、現実的な方向にいきついて終わった。そこまでやるならもうこれは「僕」ではなく柳の話にしなくてはならなかった。けどこれは「僕」の話だ。
予定と違ってきてしまったのは柳だけではない。錦は藤田さんみたいな大男で、絶対安全毛布も完全にファンクバンドの設定で考えていたし、石田さんも石崎さんも描き始める前は存在すらしていなかった。それが「僕」の動向を丁寧に描いているうちに段々と予期せぬ方向に転がっていき、この様な形になってしまった。だから描き始める前に何もかも定まっていたわけではなく、こんな設定やシーンを書きたいなというのが朧げにあって、三つのバンドがライバル関係にありながら成長していき日本のインディーバンドシーンを盛り上げていく物語(全然そんな風にならなかったが)ぐらいなことしか考えていなかった。
読者として(本当にそんな奇特な人がいるかはわからないが)一番気になるのはこれが自伝的な小説、「僕」=筆者なのではないか、ということではないだろうか。でも残念ながら「僕」のモデルは自分ではなく、これは自伝的小説ではないと思っている。「僕」は私よりもずっと優秀で、確かに自分も学生時代にバンド活動はやっていたが、もっとダラダラとしたもので、オリジナル曲でのライブなんて数回しかやったことないし、作曲なんて本当に十曲ぐらいしか出来なかった。住んでいた街も大学も年齢も違う。就職活動も相当苦労したし、高岸や「僕」みたいに気持ちを切り替えて就活に打ち込むことも出来ずに、ずるずると大学に居続けて、本腰をいれてからも、本当にいやいややっていた。ただ、「僕」が曲が作れずに悩む所や、そんなスランプを突破して詞先のスタイルを確立するところは実体験を元にしている。作中でたまに歌詞が出てくる曲があるが、それは実際に筆者が学生の時に書いた曲であり、メロディーとコード進行が実在している。自分がきちんと作曲できるようになったのはまともなバンド活動を辞めてしまった後だったのを悔やんではいたから、物語の中の話とはいえ、今回このような形で自分の曲がちゃんとしたバンド編成で演奏されたのは良かった。
最後にこの小説を読んでくれて、Twitter(現X)でリツイートしてくれたりコメントしてくれた皆さんに感謝の意を表したい。あなた達のおかげで完走することができました。ありがとうございました。

