リバーポートソング 第二部 第二話 このアーティストのここが凄いと熱っぽく語る彼らの目は澄んでいた。そしてその瞳の奥にはしっかりとした裏付けがあった。

【第二部 第一話はここから】

【あらすじと今までのお話一覧】

 この頃には映画にも飽き始めていたが、だらだらと見る習慣だけは続いていて、何本か実家に置いてあったのを見た。それもめぼしいものがなくなってしまって、近所のTSUTAYAで映画を物色しているとビートルズの※①『ア・ハード・デイズ・ナイト』と『ヘルプ!』があって、そういえば好きなのに彼ら主演の映画を見ていなかったなと思い、借りることにした。
 もっと早くみておくべきだった。二本を見終わった僕は静かに感動していた。筋は荒いところもあるが、コメディ映画として単純に面白く、なによりもそこには動き回るみずみずしいビートルズの四人のメンバーたちがいて、彼らは実に楽しそうに演奏していた。バンドをやりたいという気持ちにはまだなれなかったが、とにかく楽器を弾きたくなった。
 心の何処かに微かに残っている音楽への情熱に微かに火が灯ったような感覚があった。停滞期は今にしてみればほんの短い期間の話だったが、当時の僕にはとてつもなく長い二か月だった。復路もまたバスでのんびりと帰る予定だったが、居ても立っても居られなくなり、予定をキャンセルして在来線と新幹線を乗り継いで予定よりも二,三日早く東京に帰った。帰りの新幹線の中ではずっとスーパーカーを聴いていた。
 帰るとすぐに僕は今までの自分に足りなかったものは何か考え始めた。冷静に振り返ってみると、高岸も石田さんも楽器に対する分析が鋭く、引き出しも多彩だった。そして二人とも自分の好きなアーティストをとことん研究していた。その研究とは言葉によって特徴を定義するだけのふんわりとしたアプローチではなくコード進行やメロディーの在り方など、各楽器の編成やアレンジなど、一つ一つの曲を因数分解して曲を構成する要素をつぶさに明らかにしていくやり方だった。音楽理論の勉強は、高校のうちから参考書などを見たり買ってきていたりはして通ってはきたのだが、全く頭に入らなかった。肝心の参考書の作者が自分にとっては全く興味のない類のJ-popや、一般的なヒットソングに携わっている人間だったし、そしてそういう本の作者は、本業が儲かっていないからこのような作り方を売って生業にしているのでは、と思えてあまり読みたいとも思えなかった。穿った見方かもしれないがまぁ真実だと思っている。
 となると、やはり石田さんや高岸の様に自分の好きなバンドやアーティストを自分で分析する所から始める方がいいんじゃないかという気がした。こうなりたいと言う人を模倣した方が理にかなっているし、何より学んでて楽しそうだった。このアーティストのここが凄いと熱っぽく語る彼らの目は澄んでいた。そしてその瞳の奥にはしっかりとした裏付けがあった。僕もそのようなものを獲得したかった。無論、アーティスト達は教則本のように丁寧に教えてくれはしない。だから盗むしかない。しかし彼等のメッセージは教則本の何十倍も芳醇だ。問題はどうやって盗むかだった。石田さんも高岸も※②バンドスコアや楽譜を参照していたわけではなかった。全て耳で聞き取ってそれをメモして楽曲を分析していた。所謂耳コピというやつだ。耳コピと言っても完全に耳だけを頼りにしているわけでもなく、楽器を並行して弾きながら、曲に合っている音を探して、コードなり、フレーズなどを探り当てていく。地味で時間のかかる作業だ。僕はこの耳コピが苦手でついついバンドスコアを頼ってしまったり、高岸の手を借りたりしていたのだが、今やそれもできなくなっていたし、そもそも彼らに頼り切っていた姿勢が良くなかったと感じていた。本格的に耳コピをマスターする必要があった。ということで、自分が理想とする楽曲を集めた※③MDを何枚か作ってみて、それらの楽曲を耳コピして分析することにした。最初はなかなか思ったように狙った曲を上手く耳コピできないので、まずはシンプルな楽曲から始めてみる事にした。ラモーンズなどのパンクやパワーコードを主体とするバンドからコピーし始めたのだ。この作戦は功を奏して、僕は段々と耳コピに慣れていった。そして次はフォークソングをコピーし始めた。フォークはギターと歌だけだったり、バンド演奏があってもアレンジがシンプルだったりして、コード弾きをしているギターの音を拾いやすいからコピーしやい。これも耳コピに慣れるには最適な教材だった。そうして徐々に複雑な曲の耳コピにも挑戦していった。どうしても聞き取れないコードがある場合は、幸いなことにコード集のような物が載っている教則本を持っていたので、それを頼りにした。それでもわからない場合は素直にその曲はきっぱりとあきらめた。そのうちに時間がたって耳コピのレベルがアップしてくると、昔は聞き取れなかった曲も聞き取れる様になっていたりした。耳コピした曲のコード進行をノートに書き留めていき、時々そのノートをみながら弾き語りなどをして楽しんだ。段々とコピーした曲とレパートリーが増えていった。耳コピはものすごく楽しかった。ギターをやめるまでに、最終的に僕は千曲以上耳コピをした。ノートは七冊以上にもなった。今でもそれは捨てられずに本棚の片隅でほこりを被って眠っている。
 それから耳コピした曲を中心に個々の楽器の研究も始めた。今まではギターをメインに曲を聴いていたが、ベースも気にするようになった。安物のベースだが手元にあったので、ベースラインがかっこいい曲、ベースの練習になりそうな曲を集めたMDを作って、それにあわせて練習したり、フレーズを研究したりした。これが後で多いに役に立つとは思ってもみなかった。当然ギターに関しても同じようなMDを、ソロ、バッキング、コード進行、練習用と、それぞれ別に作った。練習用の曲に合わせて弾いた後で、新しい曲を耳コピしたり、個々のパートを研究したりするのが日課になった。
 こうして僕はアーティストや楽曲の研究を始めた。既にその頃には、冬休みが終わり、大学がまた始まって、そろそろ年度末の試験やレポートが近づいていた。柳との運命的な出会いもこのころに起こった。
 夜間のバイトを続け、バンド活動もやらず、CDも買っていなかったので、その時までには結構な貯金ができており、僕はギターを新調する事にした。その時家にあった機材はフェンダージャパンのテレキャスターとYAMAHAの安いアコースティックギター、そしてハードオフで一万円ぐらいで買った安物のベースだけだったから、※④レスポールもしくはストラトタイプのギターで、それなりにいい値段がしてメイン機材たり得る物が欲しかった。何度か御茶ノ水や池袋の楽器屋に足を運んで大体の目安はついていたから、あとは買う勇気を出すだけだった。ところが買いに行くと決めた日がたまたま大寒波が関東近郊を襲った日で、電車は一部止まるし、楽器屋はやってないしで空振りに終わって、とぼとぼとマーヴィン・ゲイを聴きながら帰ってきたのである。その道すがら、同じく誰も参加しなかったバンド練習に一人参加してスタジオで四時間ドラムだけ叩いて、帰りにメールでバンドを脱退を伝えた柳に偶然出会ったのだった。
 柳とはそれから週に一回ぐらい目的も無しに会っていたと思う。特に何をするでもなく柳のうちでダラダラとCDを聴いたり、音楽の事を話しながら一緒に飯を食いに行ったり割と目的も無く不毛に過ごしていた。柳と僕とは同じ大学だったが彼は夜間部であまり大学で会うことはなかった。昼間彼は色々なバイトを転々としていたと思う。そのため、この頃は昼に柳と顔を合わせる事もあまりなかった。そして柳と会う度に数ヶ月前までは高岸とこんな風にして音楽について語り合っていたなと思い返す事が多かった。柳とバンドを組みたかったけれど、この関係性がまた高岸の時と同じように壊れてしまうのではと思い中々話を切り出せないでいた。何より自分に対して自信がなかったのもある。理想的な誰かとバンドをやるには自分の実力がまだ不足していると思っていた。まず、満足に作詞作曲ができる必要があると思っていた。柳と特に目的もなく過ごす時間がなによりも楽しかったからそれで満足してしまっていたのかもしれない。それに柳がバンドをやりたがっているのかもよくわからなかった。彼は先輩と組んだよくわからない※⑤メロコアバンドを辞めたばかりだったし柳が音楽について詳しいだけでなく、自分でも曲を作っているとはこの時はまだわかっていなかった。ただ彼が音楽について詳しいのは最初しゃべった時点でわかったし、耳コピを始めたばかりだったこのころは聞き取れない曲があるとよく柳にわからない箇所のコードを教えてもらっていたりした。
 三月。久々に高良くんから連絡が来た。高良くんとは僕が映画ばかり観て引きこもっていた時期にも実は何度か遊んだのだが、彼も最近は忙しかったのか、新年になってからは一度も連絡がなかったしこちらも何も連絡していなかった。彼の大学のサークルの有志で平日渋谷の小さなクラブを貸し切ってイベントをやるらしい。そこで高良くんがラップを披露するから是非見に来て欲しいというのだ。チケットはタダにするから誰か連れて来れるなら連れてきてと言われたが、僕が「すとれいしーぷす」としてライブハウスに出演したときに彼はお金を払って見に来てくれたので僕もお金を払うといって、ただでお呼ばれするのは断った。「ヒップホップだけじゃなくてさ、テクノとかロックとかもDJタイムで流したりするから、バンドメンバーで興味ある人いたら是非連れてきてよ」その時は咄嗟に相槌を打ってしまったが、実はバンドを辞めたことを高良くんにいえてなかったし、特に気軽に誘えるような人もいなかった。が、高良くんにはお世話になっていたし、なるべく集客の力になりたかったから、石崎さんと錦を誘った。石崎さんと久しぶりに話したかったし、錦ともあの練習以来会ってなくて、彼女の音楽活動がどうなっているのか気になっていたのもある。本当は成戸を誘いたかったが、バンドを辞めてほぼ引きこもりみたいになってから、ずっと成戸に合わない様にしてきたから、今更どんな顔して会ったらよいのかわからず誘えなかった。向こうも僕のことはもう友達とも思っていないだろうなとおもっていた。柳も誘おうかと思ったがなんとなく興味なさそうな感じがしたからやめておいた。
 その頃、何ヶ月もCDを買っていないという、僕にしては異常な状況が続いていた。柳との交流で彼の家で聴いた事の無いCDを聴く事である程度新しいものを開拓するという欲が抑え込まれていたこともあっただろうが、そろそろ柳の家で開拓したものを自分も所有したいという欲も出てきて、折角渋谷まで行くのだから道中CD屋巡りをしてみようと思い立った。予算は二万ぐらいに奮発する事にした。僕の住んでいた街から吉祥寺まではバスが出ていたから、まずバスで吉祥寺まででてディスクユニオンとブックオフを物色し、油そばを食べて、買ったCDを聴きながら京王井の頭線で下北沢まで移動、ディスクユニオンに行ってまたCDを買い、そのあと渋谷に到着。タワレコ、HMV、ブックオフ、レコファンを巡って、買ったCDを眺めつつ、六時の開場まで待つ、というプランを立てた。当日、吉祥寺のユニオンでライドの初期のEPを何枚かとプライマル・スクリームの※③『スクリーマデリカ』のUS盤を買ったと思う。吉祥寺のブックオフでは大した収穫が無かった。予定通り油そばを食べてから京王線にのって、CDプレイヤーで早速買ったものを聴いた。いつの間にか電車の中で寝てしまっていたらしく、もう少しで寝過ごす所だったが、すんでの所で何とか起きて下北で降りた。下北沢に来るのは、それこそ「すとれいしーぷす」でバンドとして出演して以来で、当たり前かもしれないが何にも変わっていなかった。この街は季節にかかわらずいつもおんなじ顔をしている気がした。

【第二部 第三話へ続く】

※①それぞれ『ビートルズがやってきた、ヤァ!ヤァ!ヤァ!』と『4人はアイドル』というなかなか時代を感じた邦題がつけられていたのだが、この時原題カタカナ表記だったか、邦題だったかは覚えていない。

※②ロキシーミュージックやXTCのバンドスコアなんて当然売ってなかったので、石田さんや高岸が耳コピに向かわざるを得ないのは当然だったかもしれない。当時もネットにコード譜やタブ譜的なものはアップされていたが、今みたいに探せばなんでもあるというわけでもなく、ごく限られたものしか無かった。

※③MDとはミニディスクの略。CDに代わるコンパクトなディスクシステムとして1992年に登場したが、2004年当時には既に廃れて来ていた。ただ、編集がしやすく、曲の頭出しがCDと同じように出来たり、音質を落とせば4倍の容量を使えたりと、お気に入りの曲を集めたディスクを作るには、パソコンにCDを取り込んでCD‐ROMにお気に入りの曲を入れるよりもMDの方がお手軽で便利だった。

※④かなり特色の違う2本だが、要はなにか目的があったわけではなくとりあえず代表的なものを持っておきたいぐらいの安易な気持ちだった。

※⑤この後柳の趣味嗜好を深く知る度に、かれがメロコアバンドに参加していたというのが本当に謎で仕方がない。

※⑥「Come Together」がインストではなく、歌アリになっていて僕はこっちのほうが好きである。

【第二部 第三話へ続く】

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