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【歌詞解釈】スピッツ「死神の岬へ」。意味を探る。

2019/01/10
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今日はスピッツのデビューアルバム『スピッツ』に収められている、

「死神の岬へ」

という曲を取り上げたいとおもいます。

スピッツの代表作といえば「ロビンソン」「チェリー」などで、「死神の岬へ」なんて聞いたことないよ。

というかたが多いのではないでしょうか。

スピッツといえば、草野マサムネの書く、歌詞の良さや不思議さに定評のあるバンドです。

今回は「死神の岬へ」という、初期の地味な曲ですが、

なかなか解釈のし甲斐のある曲を取り上げます。

「死神の岬」とは何なのか、それで何を表したかったのか。

そんなことを考えていきたいとおもいます。



「死神の岬へ」をめぐって

曲の認知度

この「死神の岬へ」という曲ですが、どのくらいポピュラーな曲なのでしょうか。

説明するまでもなく、スピッツは日本を代表するバンドです。彼らが本格的に売れ始めたのは1995年のシングル「ロビンソン」からです。

それ以降はブレイクしたバンドとして注目を集め続けてきたわけですから、95年以降の楽曲は認知度が高いと思われます。そう考えると1991に発表されたデビューアルバムの内容が、世間で1番認知度が低くても不思議ではありません。

シングルになった曲や、ベストアルバムに入っている曲ならともかく、デビューアルバムにしか入っていない曲としたらどうでしょう。認知度はさらに落ちるはずです。「死神の岬へ」はまさにそんなポジションにある曲です。

同じ『スピッツ』に入っていて、ベストにもはいってないような曲に「うめぼし」という曲があるでんすが、こっちはもっと人気なんですね。

「うめぼし」というロックバンドらしからぬタイトル、その歌詞の特異性と、ヒットシングル「スカーレット」のB面にライブバージョンが収められている、この二点から結構注目されているようです。実際とてもいい曲です。

そんな「うめぼし」と比べて知名度、人気で落ちる「死神の岬へ」ですが、ネットではどのような評価、とらえられ方をしているのでしょうか。いつもはあんまり他の人がどう書いているのか気にならないタイプですが、今回はネット上でこの曲はどういう位置づけだったり、どういう評価を受けている曲なのかなと思って、気になっていろいろみてみました。

すると意外な実態が見えてきます。

心中の歌

調べてみるとこの曲、どうやら暗に自殺について歌われている曲、ととらえられているようです。

自死について考えているカップルが死神の岬、自殺スポットとして有名な岬、に車で向かって行く。その過程で、いろいろと素晴らしい風景に気づいていく。結論として2人は死んでしまったのかはどうかわからない。というのがこの曲の、解釈として多くみられるものでした。

死神の岬というキーワード、そしてどうやら「 穴の底で息だけして」いる状態の二人が主人公、ということで、そのような解釈が多いようです。

それから初期のスピッツの詩が、性や(生ではなく)死を扱うものが多く、その文脈からもこの曲がそうとらえられている傾向もあります。

ところが僕は死神の岬へ向かう=自殺を企ている、というのはちょっと違うかなと思いました。

もちろん曲の解釈は自由ですし、自分の解釈が百パーセント正しいといいたいわけでもありません。

しかしこの曲から感じる圧倒的な世界への肯定感と、自殺のイメージとの、違和感がどうしてもあるのです。

というわけでここからは自分流に「死神の岬へ」を解釈してみようとおもいます。

しばしお付きあいください。



歌詞の解釈

対比が鮮やかなAメロ

それではいつものように歌詞を最初からじっくりみていきましょう。

愛と希望に満たされて 誰もかもすごく疲れた
そしてここにいる二人は 穴の底で息だけしていた
古くてタイヤもすりへった 小さな車ででかけた
死神が遊ぶ岬を 目ざして日が昇る頃でかけた

いきなり最初からひねくれていますね。

「愛と希望」は普通ポジティブに使われますが、ここでは否定的に捉えられています。それらに満たされる事で皆が疲弊しているといっているのです。そんななかで、主人公の「二人」は特に参っているみたいで、「穴の底で息だけ」している状況です。

そんな状態から死神の岬に向かうのだから、これは心中の歌ではないかと判断されてしまいます。しかし、結論を急がずに先をみて見ましょう。

愛と希望に満たされた状態の時は穴の底です。映像的には光の差さない、かなり暗いイメージです。ところがですね、死神の岬に出発するとなった途端、日が昇る朝に出発するというイメージが出てきて、映像的にぱっと明るくなるんですね。

愛と希望⇔死神の岬

穴の底⇔日が昇る

こういう対立構造になっています。この対立構造がこの詩を読み解くヒントになっています。

ではここでいう「愛と希望」とはなんのことで、それに「満たされて誰もかもすごく疲れた」ってどういうことなんでしょう。

「愛と希望」

普通「愛と希望」はと「いいもの」または「正しいもの」としての共通認識があります。ですが、この歌詞上では明らかにネガティブなものとしてとらえられています。「愛と希望」がネガティブなものになってしまう、満たされてすごく疲れるものになってしまう、そんな状態ってどんな時でしょうか。

ポイントは「満たされてすごく疲れる」、です。「愛と希望」的な、通常みんなが「いいもの」、「正しいもの」と考えられるもの、そればかりで満たされた世界ってどんな世界でしょうか。

なんとなく息苦しくないでしょうか。

「正しい」と考えているもの、そういった価値観を押し付けられ、それで疲弊することってないでしょうか。それで満たされている世界とはすなわち、それ以外の価値観は認められないことになってしまいます。

しかも、実際、愛や希望ってよくよく考えられずに使われることが多い言葉でもあります。皮肉なことに特に歌の世界ではそうですね。その押し付けられた「正しさ」の価値観をあらわすものして「愛と希望」という言葉をここで使っている。そう解釈できます。そして主人公の二人は特にそういった環境で参っているのです。

ではその反対の「死神が遊ぶ岬」ってなんなのでしょうか。「愛と希望」の対立概念であることは間違いなさそうですが、ここではひとまず定義を保留して先に進みます。

くりかえされるBメロ

続いてBメロです。

二人で積み上げて 二人で壊したら
朝日に溶かされて 蒼白い素顔があらわれた

ここでは「愛と希望」に基づいて積み重ねてきたもの、価値観やシステムを捨て去ろうという内容でしょう。実はこの壊すということが死神の岬に向かうということが同義でもあります。

壊した結果、Aメロ同様に明るいイメージ、朝日、がでてきて二人の素顔がでてきます。

蒼白いというのはちょっと不健康なイメージもありますが、同時に若さをあらわすイメージでも、ありますから、これは「愛と希望」的なものに暗い影響を受ける前の当時の「素顔」に戻った、ということでしょう。

次です。サビにはいかないでまたAメロに戻ります。

2回目のAメロ

ひやかすつもりはないけど にやけた顔で蹴散らした
死神が遊ぶ岬で やせこけた鳥達に会おうか

これは死神の岬へ向かう途中、「愛と希望」の価値観の中で疲弊している人達に対して「ひやかすつもりはない」のだけれど、横目で大変だなぁとにやけながら、車で駆け抜けていくイメージですね。

そして死神の岬に向かいます。そこで「やせこけた鳥たち」でもみてやろうか、何てことをいってます。

さて、いったい誰がやせこけた鳥をわざわざ好んで見にいきたいと思うでしょうか。

こんな疑問を残しながら先に進んでいきましょう。

そこでまた一回目のBメロが繰り返されます。

二人で積み上げて 二人で壊したら
朝日に溶かされて 蒼白い素顔があらわれた

そう大事な事だから二回繰り返します(笑)。いや、真面目にそうなのです。念押しです。

「愛と希望」的なものに暗い影響から開放された二人に、これから起きることをこれから歌っていくよという前置きなのです。

サビ ~「カタログ」技法~

そしてサビに入ります。

そこで二人は見た
風に揺れる稲穂を見た
朽ち果てた廃屋を見た
いくつもの抜け道を見た

歳老いたノラ犬を見た
ガードレールのキズを見た
消えていく街灯を見た
いくつもの抜け道を見た

ウォルト・ホィットマンという19世紀にアメリカで活躍した詩人がいました。彼の手法で「カタログ」という詩の技法があります。沢山の事象を羅列していく技法です。

たとえば「この地球には何十億人もの人がいて、それぞれものを考え、それぞれの生活を送っている」というようなことに感動を覚えたとします。しかし、ただその事をストレートに書いただけでは面白くありません。というかその感動に近しいものを読者に与えることはできません。いきなりこういうことを思ったんだけど、と言われても共感できるでしょうか。まったく知らない人に「愛してる」といわれるようなものです。

ではどうするか。

自分が感動したその経緯を追体験させるような詩作が必要になります。そこで自分がどう感じたかは書かずに、かわりに世界の様々な事象を羅列していくのです。

標高3000メートル以上の高所で遊牧して暮らす人々。戦場で廃墟になった町で遊ぶ子供達。マイナス何十度の極寒のなかで暮らす人びと。最後に東京のビル街の谷間を往復するサラリーマンの姿を描いてもいいでしょう。

僕にはこれが限界ですが(笑)、プロの詩人であればもっと言葉や描写の密度を上げて、数行の言葉で世界のさまざまな場所にいる様々な人々の生活をうまく切り取り、同時に見せてくれるでしょう。

これが羅列の効果です。

このサビの部分はそのカタログという技法を想起させます。

主人公の二人がどう感じたかはまったく描かれていません。ここでは二人が見たものしか書いていないのです。

すなわちそれは聴き手の我々に二人が感じたことを追体験してもらうことにつながります。

では二人は何をみて、何を感じたのでしょうか。実際に「みたもの」を取り出して考察してみましょう。

「二人」が見たものは何か

見たもの

  • 風に揺れる稲穂
  • 朽ち果てた廃屋
  • 歳老いたノラ犬
  • ガードレールのキズ
  • 消えていく街灯
  • いくつもの抜け道

これは単純にふたりが見たすべてのものを羅列しているわけではもちろんないでしょう。そこには選択があります。ということは「みた」ということはただ単に「みる」だけでなく、ここで羅列されているものは「二人」が注目した、何かを感じ取ったものです。ではどういうものに「二人」は感銘を受けたのでしょうか。

ここに並べられているのは誰もが美しさを認めて評価するものでも、インスタ栄えする綺麗な凝った食べ物でもありません。わざわざ見に行ったりするものや、「愛や希望」の様にわかりやすくみんなが評価するものではありません。

「風に揺れる稲穂」なら確かにきれいだなとおもうことはあるかもしれませんが、わざわざそれを見に行くこともありませんし、「朽ち果てた廃屋」や「歳老いたノラ犬」「ガードレールのキズ」ならなおさらです。特にガードレールの傷なんか注目することなどほとんどないでしょう。「消えていく街灯」なんかはふとあるときには感慨深くなることもありそうですが、普段は日常の中でなんとも思わないでしょう。

でも「二人」は何かを感じたのです。多分そこに「美しさ」や「感動」があったのです。

他の人は価値を見出さないかもしれないけれども、自分達にとっては愛おしいもの、何か心を動かすものだったのです。

それらを「死神の岬へ」いく途中で見つけたのです。

死神の岬を定義してみる

それでは「死神の岬」とは結局なんなのでしょう。もう大分見えてきましたね。

「愛と希望」の対立概念だという話を最初にしました。そして「愛と希望」はみんながなんとなく「正しい」「こうあるべき」といった価値観や同調圧力であるという話をしてきました。それがみなを疲れさせ、主人公たち「二人」を「穴の底」のような状態に追いやっていました。

「死神の岬」とは、他の人は価値を見出さないかもしれないけど、自分達にとって大事なものの象徴なのです。

「死神の岬へ」行こうということは、世間がなんというかは知らないが、僕達がいいと思えるものを探しに行こうということなのです。

ここでAメロの部分を振り返ってみてみると「古くてタイヤもすりへった 小さな車」という描写が気になります。これも「小さな車」もサビの羅列の中にはいってもおかしくはないでしょう(「ちょっと老いぼれたピアノ」がはいってもいいかもしれません)。事実「愛と希望」的な世界から抜けだした彼らが唯一「死神の岬へ」向かう段階で持っていったものがこの小さな車なのです。と考えると「古くてタイヤもすりへった 小さな車」は疲弊した彼らを表す比喩というよりかは、より肯定的で愛着の持てるもの、他の人は価値を見出さないかもしれないけれども、自分達にとっては愛おしいもの、の代表なのです。

ところで、このサビの羅列の中で唯一2回繰り返されるもの、ちょっと性質の違うものがひとつだけあります。それが「いくつもの抜け道」です。

「いくつもの抜け道」とはなんなのか

「いくつもの抜け道」とはなにか。

「愛と希望」に代表されるような、なんとなく支持される価値観、押し付けの価値観、「ひとつしかない答え」に対する多様性、個性という回答です。

「いくつもの抜け道」とは穴の底で息だけしている状態から抜け出す、筋道、方法、考え方のことなのです。

「いくつもの抜け道を見た」とは、「穴の底」から抜けだすいくつもの可能性を見たということなのです。

実に肯定的、包括的なまとめではないでしょうか。

歌詞のまとめ

どうだったでしょうか。

圧倒的な世界への肯定感と、自殺のイメージとの、違和感がこれで説明がついたかとおもいます。

僕はこの曲は、ほんとに素直に曲調どおり明るい曲、世界への肯定感であふれている曲だととらえました。

あとは「二人」というのが結構みそかなとおもいます。1人で「死神の岬へ」向かというともうちょっと全体的に重くなってしまいます。覚悟があって旅たつという感じが強くなるからです。2人になることによってもうちょっとカジュアルな雰囲気がでてくる。

事実「死神の岬」に行くときの表現ですが「でかける」っていう言葉をつかってますね。「旅立つ」や「赴く」ではありません。「でかける」だと軽いニュアンスがでますよね。だから「死神の岬」には結構軽やかに、カジュアルに出かけているんですね二人は。「穴の底」から出ていくわけですから、そりゃ軽やかになるわけです。

そのカジュアルさが、全体的な肯定感にまたひとつ寄与しています。



音楽的なはなし

意外な作曲者

最後に詩ではなくて曲について話してみましょう。

スピッツといえば草野マサムネが作詞作曲をするのが一般的ですが、この曲、じつはギターの三輪テツヤの作曲です。

そのせいか他のスピッツの楽曲とはちょっと違う味わいがあって、この曲に惹かれてしまう部分もあるのかもしれません。

三輪作曲作品は「鈴虫を飼う」や「花泥棒」など、個人的に好きな曲が多いので、もっとこのコンビでの曲を聴いてみたいですね。

曲のテンポも不思議な疾走感があっていいですね。歌自体の音符がそれほど細かくないので急性なところもないので、疾走感がありつつゆったりと聴けるんですね。

やさしい歌声のせいもあるでしょうか、そのおかげで繰り返し聴いても疲れない。メロディがいいのもありますが、何度も連続で聴けてしまう中毒性があります。

爽やかですのでまさにドライブで聴いてもよいかもしれません。



まとめ

いかがだったでしょうか。

スピッツが好きという人と話していても、あんまり話題に上ることの少ない楽曲だとは思います。

実際、この曲が好きというひとにあったことがありません。

が、このようにいろいろ掘り下げて歌詞を考えてみるといろいろ考察できる懐の深さがありますし、聴かれる機会が少ないのは非常にもったいないとおもいます。

未聴のかたは、スピッツファンはもちろん、そうでない方も、是非一度はきちんと聴いてみてもらいたいとおもいます。

そして出来れば自分なりのこの曲の解釈を考えてみて欲しいとおもっています。

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