音楽連載小説 第十話

【第九話はここから】

 その日の現場である横浜線の駅には朝9時集合だった。今はコンプライアンスの関係などでそうではないと思うのだが(そう、信じたい)、モデルルームの看板持ちのバイトは、どんなに暑い日でもスーツの着用義務があった。当然ネクタイも。その時はまだ5月だったので暑かったけどまだまだ耐えられる範囲ではあった。仕事がはじまるのは10時からだけど、駅前からモデルルームまで歩いていき、そこで肝心の看板などを受け取り、その後所定のポジションにつかなければならないので、9時集合だった。時給が発生するのは10時からで、9時集合の義務があるにもかかわらず、10時までは無給だった。時給は千円だったと思う。途中休憩が一時間あって16時までの勤務で実働5時間だから1回入れば五千円貰える計算だ。実質拘束時間の長さや、後で詳しく書くがその内容の辛さを考慮すると正直アルバイトとしては全くオススメ出来ない。スーツを着るのは入学式以来で、ネクタイをしめるのに時間がかかってしまい、僕が駅に着いたのは9時ギリギリだった。僕以外のメンバーは全員到着しているみたいで、リーダー格の人が時計を見ながら険しい表情で僕を一瞥して僕の名前を確認すると僕たちの雇い主に電話で全員が揃ったことを報告した。記憶が朧げだけれども確か家を出発するときにも電話報告が必要だった気がする。リーダー格の男は僕よりも少し小柄で三十代半ばの男だった。「君、靴」と彼が僕に言った。「あっ」慌てて家を出てきたために僕は革靴ではなくいつもの癖でスニーカーを履いてきていた。※①ブロンディの『恋の平行線』のジャケットみたいな格好になっていた。「次から気をつけてね」というと彼は「じゃついて来て」と言って先頭を歩き始めた。僕はスニーカーで来てしまったことで一日中ブルーな気持ちで過ごすことになりそうだった。駅前にはこぢんまりとしたロータリーがあってバスやタクシーが並んでいた。後で知ったが駅の反対側はもっと開けていた。しかし、僕らが集合した側は低い建物とごちゃっとした商店街が少しある落ち着いた街並みで、そこを抜けると整備された広い道路に出た。道中顔見知りの連中は楽しそうに会話していたが、僕は最後尾をとぼとぼと足元のスニーカーを見つめながら歩いていた。その目の前を背の高い短髪の男が歩いていて「気にすんなよ。オレも最初スニーカーで来ちゃったから親近感湧いたよ」と信号待ちで僕が皆に追いついた時、笑いながら小声で話しかけてくれた。それが高良くんだった。

 高良くんは八王子の多摩の森の中にある私立大学の2年生で年上だったけど「敬語とかめんどくせーからタメでよくない」と言ってくれた。話を聞くとこのバイトは6回目ぐらいで、お金が必要なときに適当なタイミングで本業のバイトとは別でちょくちょく入れているという。「欲しいもんがあってさ、ターンテーブルとミキサー買おうと思って、そのためにお金貯めてんのよね」「え、DJとかやるの?」「いや、まだやってないけどやろうかなと思ってさ、一応ラップはやってるんだけど」

 この時「じゃあちょっとラップやってみてよ」と言わなかった自分を褒めてやりたい。僕はその言葉を飲み込んで聞いた。「どんな音楽聴くの」「ソウルとかR&Bも聴くんだけどやっぱりメインはヒップホップかな」僕は自分はバンドをやっていてメインはロックリスナーである事、そしてソウルは少し聴くけど※②ヒップホップはRUN DMCとかLL Cool J、ビースティー・ボーイズや、エミネム、パブリック・エネミーしか聴いたこと無いと話をした。「もっと聴きたいと思ってるんだけど、英語が分からなくていまいちのめり込めないのかも」「でもバンドやってる人にしては結構聴いてるし十分じゃない。日本語ラップは?」「※③ドラゴン・アッシュとかリップ・スライム、キック・ザ・カンクルーしか聴いたことないんだ、後はスチャダラパーとか」「まぁそうだよね。実際僕も好きだしね」と言って彼は笑った。

「コーラだ」

「えっ?」

「名前だよ。高良。高いに良いでこうらって読むんだ。よく飲み物と間違えられる」

 少し笑って僕も自己紹介をした。今なら高良くんは高良健吾の高良ですって言えばいいわけだ。高良くんがそのように自己紹介するのをみてみたかった気もする。

 肝心のモデルルームの会場にはもうすぐ着くだろうと思ったタイミングから更に15分ぐらい歩いてやっと着いた。結局30分ぐらい歩いた。その頃には辺りは建物が少なくなり、ポツポツと新築の家があって後はほとんど更地だった。そしてその更地には全て立て看板があって、これからそこに何が出来るのかを説明していた。そこは東京ではなくもう神奈川だったが、東京近郊にこんな開けて何にもない場所があるのが驚きだった。再開発の結果なのかも知れないし、つい最近までは森だったのかも知れない。問題のモデルルームは大通りを曲がって300メートルぐらいした少し小高い丘の上にあった。「こんな駅から遠い所のマンションなんて売れるのだろうか」と疑問に思ったが建設予定のマンションのチラシを見て納得がいった。駅前まで住人の為のシャトルバスを運行する予定だということだった。一応バス停も大通りには存在していた。例のリーダー格の人がモデルルームに入っていってスーツを着た営業マンと談笑しながら一緒に出てきて営業マンが物件についての簡単な説明をして、建築予定の物件のチラシを皆に渡した。営業マンがチラリと僕の靴を見た気がした。5分ほどタバコとトイレ休憩があって、例のリーダー格の男と営業マンが屋外の喫煙コーナーでタバコを吸っていた。それをみると高良くんも無表情で近づいていって一緒に吸い始めた。高良くんがいつも吸っていたのは※④キャスターマイルドで、僕はキャスターマイルドのあの独特のどこか食欲を刺激するような香りを嗅ぐと今でも高良くんを思い出して懐かしさで胸が苦しくなってしまう。休憩が終わると僕らはモデルルームにある資材置き場みたいなところに連れて行かれ、それぞれの立て看板とパイプ椅子を手渡された。僕たち看板持ちのバイトグループは全部で6名だったと思う。例のリーダー格とは別にもう1人40代ぐらいのおじさんがいて、後は学生かフリーターっぽい感じだった。全員男だった。リーダー格ともう1人僕らより少し年上ぐらいの若い男がベテランっぽい雰囲気を醸し出していて、2人とも看板ではなく、大きな紙袋を2、3個持っていた。「ではそろそろ出発します、よろしくお願いします」と無駄に大きな声でリーダー格が営業マンに言って、僕たちは看板とパイプ椅子を持ってぞろぞろと来た道を戻り始めた。

第十一話に続く

※①ブロンディはデボラ・ハリーを中心とするアメリカのニューウェーブバンド。『恋の平行線』(Parallel Lines)は彼らの代表作で白いドレスのデボラに他のメンバーがスーツなんだけど足元は何故かスニーカーでメンバーが並んでいるアルバムジャケットである。ブラーがこれのパロディのアー写を撮っていて、ボーカルのデーモンが女装している。自分のミスを正当化するつもりはないけど、スーツにスニーカーは結構カッコいいと思う。

※②当時のロックリスナーのヒップホップの入り口の多くはビースティー・ボーイズやエミネムだったと思う。ただ僕もそうだけどそこから先に進んでもっとヒップホップを聴いてみようという人は少なかった気がする。僕もそうだった。が、よくよく考えてみたら、リンキンパークにはマイク・シノダがいたし、リンプ・ビズキットもフレッド・ダーストがラップしていたし、Kornはヒップホップのリズムをベースにしていた。そしてそんな彼らの源流であるレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンもメタルとヒップホップを掛け合わせた斬新なサウンドを90年代にもたらしていた。ただ僕は彼らがヒップホップの影響を受けていたことについて真剣に考えていなかったんだと思う。

※③よくよく冷静に考えてみるとお茶の間にヒップホップを届けていた彼らを僕はヒップホップだと思って聴いていたわけではなかった。ヒット曲の一部としてごく当たり前に聴いていた。それほど彼らの作っていた音楽は聴きやすく、スッと懐に入り込んできていた。でもそこからヒップホップを掘り下げる事も僕はしていなかった。何故だろう?

※④因みに彼は香水、サムライもつけていた。サムライはアラン・ドロンが三船敏郎をイメージして作った香水である。このサムライの香りも彼を未だに想起させる。

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